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祭りの様子
平成13年の日程
上関神明祭御旗
『大国主命』読立
浦家当主略系図
御神明の囃ことば・明治時代

『上関神明祭』の由来
 浦家の上関時代に創めた「上関神明祭由来記」によると、『上関神明祭』の創始者は、小早川隆景(毛利元就の三男)である。
『上関神明祭』の起源は、豊臣秀吉の朝鮮侵略(文禄・慶長の役、1592〜3年)に遡る。豊臣秀吉に従軍した小早川隆景は、戦勝祈願のため、軍営において、御神体を作らせ、軍神を祭り、祈願した。
「この上にて敵の地利、軍卒の多少をご覧あれ。このたび、日軍勝利を得るならば、我が所領にて神明を祭らん。」 《祭典後、隆景は、その餅(御神明の三段)と名付けた上に登って敵軍の様子を遠望した。(竈八幡宮・書付より)》
 これを機に始まった『神明祭』は、その後、分族の浦家でも、主家に習い、広島県忠海において、これを祭った。
 小早川隆景が、慶長2年(1597)65歳で没した後、小早川家は、秀秋(豊臣秀吉の奥方おねの甥。秀吉の猶子となり、小早川隆景の養子となる。)が相続するが、慶長7年(1602)10月没(享年21歳)。秀秋の死後、嗣子がなく家名断絶となり、主家をなくした浦家も禄を失う。
 浦家8代当主・浦景継は、柳井市馬皿に移り住むが、岩国藩主・吉川広家の推挙によって、萩藩主・毛利輝元(毛利元就の孫)の家臣となった。
 慶長9年(1604)、浦景継は、上関に知行地2500石(長島・八島・祝島・佐合島・牛島・馬島・大島郡三蒲地区)を賜り、上関へ住居を移した。
 『上関神明祭』は、この頃から毎年行われており、400年の伝統がある。
 この浦家が、上関から阿月へ移住した時期は文献によって異なる。
【寛文9年(1669)、陸方に移転以前のことで、寛永2年(1625)の知行地替えのころであろう。〔上関町史〕】
【10代浦家当主就昌のとき、萩藩御船手組頭から陸方に転じ、阿月に移封された正保元年(1664)のとき。〔350年記念誌・阿月神明祭〕】
現在、上関町福浦に浦家の墓所が残っており、石祠と宝篋印塔が祀られている。
近年、『上関神明祭』は、かまどがせき会による、この浦家の墓参で幕が開く。
 参考:【浦宗勝(小早川隆景の家老・浦景継の父)が『上関神明祭』を始めたとの説もあるが、宗勝は天正20年(1592)9月九州・筑前で病没。(文禄の役・碧蹄館の合戦(1593年))           
なお、浦家上関移住は慶長9年(1604)、宗勝没後11年後のことである。】   浦家当主略系図

『上関神明祭』形態の推移
上関定住の萩藩毛利家お抱え医師・小泉玄碩の記した「宝暦13〜14年(1763〜64)小泉日記」の中に、"1月14日、神明祭に参る。…略…"とあり、昔は14日に行われていたことが判る。

以前は、上関において神明宮を祀っていたが、社殿はなく、祭日に当り、仮宮を東西2カ所(東・村上家の前、西・役場の前)に設けた。東の仮宮は、通行の邪魔になるため祭典が終わり次第解き払い、西の仮宮は翌朝解く。
御幣(次の年の御神体となる)は、翌年の当屋(当元)に置いて祀る。
呼称も、宝暦頃には「神明祭」とある。いつからか「神明宮」となり、その後「氏」が付いて「氏神明」と呼ばれるようになったが、現在は「神明祭」と呼んでいる。
祭日は、旧暦の1月15日に行われた。 御神明の囃ことば・明治時代

祭神は天照皇大御神、軍神(鹿島・香取の神)、伊弉諾尊、伊弉册尊。
神明の行事は全て東を優先する。神明は男神明(東)、女神明(西)の2体を巻く。
東西に当屋と世話焼きがおり、旧正月元旦から各当屋へ集合して作業を始める。

5日は、「足迎え」日で、逆さ松(胴体となる松の木5本の内1本は、胴体が先細りにならないように逆さに入れる。やや小さな松。)を、小船で迎えて帰る式。
左右(両脇)に5丁ずつ櫂を用いた小船の舳先に長襦袢・襷掛けの若者が両手に"采幣"を打ち振り、艫では、同様の姿の若者が菰かぶりの四斗樽の上に金色の櫂を持って乗り、太鼓に合わせて踊る。
♪〜ほうやんえぇ、よやさのさっさ、よいと巻けよぉいよい〜♪。
 
11日、昼過ぎから東(主に東町、戎町)、西(主に惣津)に若者が集まって胴体を作る。御神木は、高さおよそ3丈3尺(約10m)、太さ8尺(約2,5m)。
胴の中に、前年の御幣を御神体として入れ、松・竹で巻き込み藁縄で結び固める。これに、裏白・扇・松(女神明は椎)を、それぞれ1段ずつ丸くこんもりなるよう差込み(これらは鏡餅を表す)、形を整え3段に作る。この鏡餅の直径およそ1丈(約3m)とする。
祭日には、村中の者が、海に入って身を清め、お百度参りを行う。
夜半を過ぎてから、神明一対を浜辺に運び、火をかけて囃していた。

その後、足迎えも中止され、過疎による人口減少、松喰い虫の被害により材料も不足するなど、『上関神明祭』も衰退する一方で、御神明も高さ2〜3mとなった。

平成9年、まちおこしグループ「かまどがせき会(会長菊村洋之)」が発足。
10年1月15日神明祭には、約10mの御神明(男神明・女神明一対)を作るなど、積極的に取り組み始めた。

同年、「上関水軍まつり(7月25日)」にも、御神明を一対作り、クルージング会場入場門として入り口両脇に設置した後、かまどがせき会メンバーによって、掛け声ともにメインストリートを引き、『上関神明祭』を町内外の人々に強くアピールした。

翌11年、御神明一対に、長さ5mの流れ旗(干支・浦家家紋の丸上紋入り。安田和幸画)を取り付けた他、上関子ども会・婦人会による3世代交流として餅つきを組み合わせた。
メンバーにより、室津地区の正月飾りも収集、『上関神明祭』は、復活を目指す。

12年、さらに「にわか舞(角谷満脚本による創作神舞)」が取り入れられた。

13年、平生町佐賀田名に伝わる田名神舞指導者の吉岡進一先生に指導を仰ぎ、大人と子どもたちが夜な夜な練習を重ねる。
当日、会場に臨時舞場を造り、見事な神舞(恵比寿…恵比寿とヒョットコ、三鬼神…鬼神(大人3人)・太夫(子ども3人)、大国主命…太夫と六郎)を披露した。
鬼神のお面は、角谷満作も使用。
会場入り口には幟(安田和幸画)が風になびき、関係者は、黄な粉餅、河豚鍋・豚汁でお腹を満たした後、子ども達のビンゴゲーム。最後は餅まきで締めくくられる。

年々新たな試みを計る『上関神明祭』は、新しい世紀の幕開けにふさわしく、昨年よりもさらに多くの人々が集い、一層賑わいをみせていた。      (敬称略)

『上関神明祭』の材料の意味
松は神と交わる木であり、祀るは松を崇めることに由来する。常緑樹は神木とされ、長寿を表す。
竹は神の依り木で、聖域を示す儀式植物。
春真っ先に咲く花の生命力は、命の強さを表す。
裏白 裏が白く双葉の形から、共に白髪の生えるまでとの長寿を表す意味もある。
大昔の自然林に多く群生。常緑樹で長寿を表す。
代々の榮え。時期が過ぎると元の青色に戻ることから若返りを表す。
扇子 蒲葵の葉の代用といわれ、蒲葵は神木で、幹は「生命の種」を宿す男性シンボルの形にそっくりで、生命力を表す。悪・災いを扇ぎ、払う。
藁縄 稲に繋がり、五穀豊穣で生命を保つ食から生命力を表す。また、縄は、長く続くようにとの意味もあるとか。
御幣 悪・災いを払い清める。
御札 悪・災いから身を護る。
花飾り 5色を飾る。5色の和幣が元になっており神に真心を奉げるという意味。これは、中国古来の哲理にいう五行・森羅万象の意味合い「木」「火」「土(黄色)」「金」「水」、方位でいうと東南中央西北となり、色は、奥から紫(黒の代用)・白・黄色(一番高貴)・赤・緑となる。
干支旗 神の降臨する場所を示す。(多く立てられる場合は祭りの範囲を示す。)

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