20.守屋大臣長者を攻める
敏達天皇六丁酉歳の三月上旬守屋大臣は、一門貴族を集めて「豊後の国に真名野長者というものが居るが、おどりを極め、異国からきまざまの沙門を招き、天台山から仏像という異形のものを取り寄せ、日本では聞いたこともないところの、天笠祇園精舎とやらの体を移し置くということは、その罪がはなはだ大きい。もとよりわが国は神国であって、異国の邪教を入れるということはよろしくない。そのようなことをすれば、神の怒りによって、世に災難が起るであろう。先帝は、長者一代はいかなる罪も赦すと、仰せられたが、先年わが尾興大臣が中州に流罪になったのも、皆長者の所為である。そのままにさしおくことはできぬから、急ぎ押し寄せ、寺院を焼き払い、長者父子を残らずからめとれ」と命じた。このことは、すぐ長者に知らせがあったので、防戦の用意をしていると、果して守屋の軍勢が攻めて来た。しかし、何度攻めても、大臣の軍はさんざんに敗北して、到底爪のたつものではなかった。
このように守屋大臣が攻めあぐんでいるところに、大伴の臣らが謁見して、「長者父子は、英雄貴族を数万人もち殊に百済から、商船三十余隻に長者の家来であるというものが、二千余人も乗り込んでいます。それに、日本ではまだ聞いたことのない石火矢、火矢などという攻め道具をもっていますから、こちらが十万の兵を差し向けても、とても勝つ見込みはありません。また、豊後の国同たる長者に、勅許も得ずに兵を差し向けたのでは、長者父子の怒りはとても大変なものであります。これは早く和睦をするのに越したことはありません。と諌言した。大臣も大勢には屈して、致しかたなく大伴の臣を和睦の使者として、豊後に差し向けたが、山王宮への寄進として八連の鈴を一対、金の幣帛一対、錦十巻、鉾二本を奉納した。この時守屋の大臣は三十二才であった。
大伴の臣の下向は、敏達天皇七戌戌歳の正月中旬であった。
草川左衛門助殿へは、金こしらえのよろい一領、名剣一振り、錦の直垂五重、槍十二本、弓十二張を、五十余人で持参して、末長の城に入ったので、長者父子はこれを出迎えて、めでたく和睦は成立した。
長者は、使者を厚くねぎらい、大伴の臣をはじめ家来の下々に至るまで、黄金巻物を引出物にしたので、使者一行は厚く礼を述べて帰洛したが、深田の城から南原四郎、溝部次郎左衛門、川登次郎が使者となって、百余人の家来を連れ正月下旬に出発して、二月上旬に上洛して、守屋大臣に謁見し、黄金千両、巻物五百巻、鉾五百本、を献上したので、大臣も喜んで三人を好遇し、種々の引出物を与えた。そして使者がこの趣きを報告したので、長者や家人一同は「これひとえに山王権現の御加護である」と、ますます、その信仰を増した。 |
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