
| 18.金政君豊後に下り姓を賜わる 欽明天皇三十―庚寅歳の秋八月萩原次郎右衛門。同 忠左衛門の両人は長者の意を受け上 洛し、 「豊日の皇子の姫君王絵姫は、次第に御成長遊ばしたが、都へお召し上げになりましょうか、お伺い申しあげます」と言上すると、 「かねて皇子と約束がある、と聞くから姫は、長者に賜う」とお仰せ出された。両人は非常に喜び重ねて「この上ながらのお願いは大内より長者の世継ぎを賜わりますよう」とお願い申しあげると、もっともな願いということで、伊利の大臣の三男、当年十三才になる金政公を、長者の世継ぎとしてお選びになった。両人は大喜びで、金政公のお供をして帰国したので、長者夫婦はもとより、家人に至るまで家の安泰を喜び合った。 その後、人皇三十代敏達天皇元壬辰歳天皇は御即位の御祝儀として、金政公に五千八百代の地に綸旨を添えられ、隼人正を勅使として豊後の国にお差し向けになった。その綸旨は、豊後の皇子が長者の牛飼いとなり、草刈りをされたことに因み、金政公の御姓名を草川右衛門助と号し、「橘の氏次と名乗れ」という勅定であった。氏次公には五万八千石を賜わったが、公の武技は特に衆にすぐれ、いよいよ、長者の後窩は富みかつ栄えた。 19.般若姫皇后忌日供養のこと 人皇三十代敏達天皇二癸巳歳のこと、真名野長者の念願にこたえて、唐土から高僧沙弥三十余人が、霊仏を奉じ仏具をもって渡来した。長者夫婦は大そう喜んで、これからの人々を連城法師と共に住わせ、日夜勤行をおこたらなかったが、この年七月二日のこと長者夫婦はこれらの客僧たちを伴って、臼杵深田の新御殿に案内して、「この御殿をご覧下さい。これこそ先帝の第四の若宮橘豊日の皇子が、御下向になった時、私の娘と共に御座所となきれた御殿でありますが、皇子は帰洛せられ、娘も、今は空しくなりまして、恩愛の楽しみも束の間と消え果てました。どうぞ姫の後生の弔いを願います」といったが、堪えかねて座敷に伏し転んで嘆くので、高僧たちもこれを見て、衣のそでをしぼる有様であった。連城法師には七人の弟子がいた。それに渡来の僧が加わって、四十―人で八月七日から、十三日まで十日間、般若皇后の御供養が修行された。十四日は海に沈んだ家人の供養をしたが、十五日には、高僧たちは法服を整えて、管絃謡楽の曲、見仏間伝の楽を奏した。玉津姫も覚えず座を立ってしばらく楽に合せて舞い、 「名月の月は昔にかわらねど迷いの雲は月かくすらん。」と吟詠した。 |