▲般若姫上洛難風に遭う
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16.般若姫上洛難風に遭う
明くれば欽明天皇二十八丁亥の歳となった。正月の中旬に百済から、竜伯、定馳子二人の船頭が、数万の珍宝を積んで入港した。長者はこれを聞くと、二人を館に呼んで「このたび姫が上洛するので、諸方に舟を求めてみたが、いずれも小船で心もとない気がする。幸いその方が来合せてくれたので、頼み入るが姫の乗船としてしばらく貸してもらいたい」と申し入れると、「私どもも、一度は、日本の帝都を拝見したいと思っていましたから、それはお安い御用でございます」と気安く承知してくれた。長者夫婦は大そう喜んで、家人らに命じて二人の積んできた荷物を、全部買いあげさせて、白杵の浦の倉に入れ、船はきれいに掃除をして、綾羅の慢幕玉のすだれを飾りつけさせた。
そこで、今度の上洛は臼杵の深田にある新御殿から出発することにして、二月上旬には長者夫婦をはじめ、主な家人は三重の大内から深田に引き越しをした。そして、般若姫の供人は御局三人、腰元七人侍女二十人、はした女に至るまで女性は五十人、男子二十四人、また、守護職として野津原弥五郎が男女千余人の同勢を引き連れ、大船小船合せて百二十隻に分乗して、白杵の浦から舳艫相ふくんで出帆した。長者をはじめ家来の男女たちは、紫雲山に登ってこの船出を見送った。けれども、白雲が山懐にたなびいてよく見えなかったので、玉津姫はそれをなげいて「天津風雲吹きはらえ心なき乗りゆく姫の影を見し間も」と詠ぜられた。すると白雲はさっと引いて、遠く船路は眺められるようになった。その夜は長者の仮屋で船出の祝宴を張り、その席で玉津姫は『紫雲山、案の嵐に雪晴れふもとの海に月や澄むらん』と詠じた。紫雲山が一名「姫見の山」と呼ばれているのは、この言い伝えがあるからである。さて、姫の船が深江の浦に入って碇舶しているところに、勅使伊利の大臣が上下百人三隻の船で入港してきた。
「御上洛が余り長引きますので、主上をはじめ若宮きまは大へんお待ちかねでございます。お迎えにまいりました」と宣旨を伝えた。そこで、再び碇を上げてこの港を出帆したが、周防の国平祥島(平郡?)にさしかかった時、にわかに風が起こって、姫の船は周防の国熊尾(毛?)の浦に吹き流されてしまった。
勅使の船は、ようやく波を乗り切って、中国に渡り早く帰洛したが、姫の船は、この熊尾に十日ほど滞在し、この間、向うに見ゆる小島に渡って、馴子舞の祝儀を行ったが、この島は豊後の姫島であると言い伝えられている。
そこで、三月二十九日にはこの島を出帆したが、周防国大畠鳴門の瀬戸にかかった時、またまた暴風が起り、百二十隻の船は十方に吹き流されてしまった。
この時萩原、竹内の両人がようやく気がついて、姫の守護仏千手観音の尊像を取り出して、「船中安穏に御守護下さいますよう」と祈願をこめて波間に沈めると、風浪納まり天気晴朗となった。
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