般若姫伝説(9)
14.帝都の騒ぎと勅使の下向
都では若宮がいなくなって、帝をはじめ、大臣諸郷末々まで大騒ぎとなった。全国にお触れを出してさがしてみたが、手掛りもなく、空しく二ケ年の月日がたった。ある時太伴の持主が参内して言上するには「若宮がいなくなられてから早二ケ年になりますが、このころ豊後白杵の浦人が、綾錦の幕や種々の飾道具を持参して、売りたいというのでその訳を聞いて見たところ去年の秋、生国豊後、真名野長者の―人娘がにわかに病気にかかり、三重の松原で笠掛けの的というものを射て、姫の病気はなおりましたが、その時、神前に供えたものを請い受けたものでございます。というので重ねてその笠掛けの的は、何者が射たか、と問いますと、都の若で長者の牛飼いをしていた者が射手を望んで射当てたのであります。年は、十八ばかりの美しい若者で、今は長者の婿になっていると申しました。」といったので、それが若宮だろうということになり、急ぎ迎えのために大伴持主、隼人正を勅使として上下三百人を引具して、豊後にお差し向けになった。勅使は、摂津の国難波から船出して、日数もかからず豊後についた。長者夫婦は勅使を歓待した。宣旨の趣を若宮に伝えると「自分も追つけ帰洛する汝等はしばらく滞在せよ」と仰せになって、両使は、しばらく休息することになった。
15.若宮の帰洛と玉絵姫の誕生
若宮は一日も早くご帰洛にならねばならないのであったが、愛着の緒断ちがたく、一日一日とのび、それから二ヶ月も過ぎてしまった。二人の勅使に帰洛を督促され、若宮も仕方なく長者夫婦にいとまを告げ、姫には、「御身もともども上洛したいと思うが今はただならぬ身であるからそれもできない。懐胎の子供がもし男の子であればすぐ連れて上洛してもらいたい。しかしもし女の子であったら長者の家の世継ぎにしたらよかろう。いずれにしても安産が大切であるぞ。そのうち迎えの者を差し向けるであろう。」と申されたので、姫は言葉もなく、やるせない思いでうち沈んでしまった。長者夫妻も、別れを惜しんでむせび泣く有様であった。若宮も堪えかねて、その手をとってなだめ、硯を取りよせて、「我子を此処に置く。今よりは此里を大内山と名づくべし」とお書きになった。これが今内山といわれている由来だという。若宮はつきせぬ名残りのたもとを振り切って、涙とともにご出発になったが、姫はたまりかねて、宮のあとを慕って走り出て、天を仰ぎ、地に伏して、消え入るばかりにさめざめとお歎きになるので、家来が馳せよって、さまざまにいさめていたわりながら、一間に連れ去った。この時若宮十九才般若姫十七才。欽明天皇二十巳首歳六月下旬であった。
般若姫は十一月八日月満ちて、めでたく女の子を安産され、玉絵姫と名づけられた。翌年春、姫は溝部、萩原両名の家来たちに「わらわも明年は上洛したいので、あらかじめ用意をしておくように」とお言いつけになったので、両名はその準備にかかった。献上の品々は、黄金十万両、七宝の玉の箱、唐紅赤色の錦、紺地の綾錦網、金紗、羅綾、鸞絞電竜、唐織、錦繍、きうりょうの織物、錦織白布、黒布、以上巻物の番(つがい)八万余及びその外御召物、七宝の玉の天冠羅綾の錦、鸞紋の御衣、きうりょう、けんもん金紗の御絹という、その数はまた、数えつくせぬほどであった。そして、その御乗物は、七宝荘厳の玉の御輿、これは長安から求めてあったものである。