
9.五度の難題
隼人正は帰京して「姫は風聞とは相違して大へん醜い女であります」とうそを言ったが、帝は御承知にならず、大いに怒られて隼人正には閉門を申しつけられた。そして「勅宣にそむいて、姫を差上げぬことは不都合である。違勅を見のがすことはできぬが、まず難題を申しつけて、それに少しでも違背したならば、直ちに押えて姫を取りあげよ」ということになって、白胡麻子石、黒胡麻千石、油千石、けし千石の品を早速に献上せよ、さもなくば姫を差上げよ」と大伴の持主を、勅使として豊後に下した。持主は上下200人を引率して、堺の浦から出帆して、7日間で臼杵につきこの旨を伝えると、小五郎は多くの倉庫からこの品々を出し、船に積んで差上げた。勅使が帰京してこの品を差出し、小五郎の様子や居所の有様を奏上すると、帝の逆鱗はなおおさまらず、こんどは虎の皮千枚、ラッコの皮千枚、豹の皮千枚を上納せよ、と、再び勅使を下向きせられた。これらの品を直ちに揃えられ、溝部次郎左衛門、柿本原孫兵衛、三好和泉の三人に持たせ、勅使とともに上洛、献上された帝は、ますますお怒りになって、そのような万宝に満ちた長者なら、いよいよ差し置くことはできぬ。今度は伊利の大臣が馳せ向かって、有無をいわせず姫を召し連れ帰れ、もしこれに違背するようであれば、これまで、わが国にば無かった難題を持ち出して迷惑させよ。」とのおおせに、三人は大そう驚いて帰り、このことを報告した。小五郎は、家人を集めて相談し、今度はなかなか難題であろう。この上は、たとえ官兵を差し向けられても、身命を捨てても防禦して姫を渡してはならぬ。もしもカのおよばぬ時は、唐土長女の帝に頼んで防禦せねばならぬ。ということに衆議一決した。伊利の大臣が勅使として欽明天皇22年9月下旬
(一説には欽明天皇26亥歳9月27日とある。)長者の館に到着して、綸旨を伝えた。小五郎がほかのことならなんでも承るが、これだけはと、申し上げると、勅使の供人後藤蔵人が大いに怒って、小五郎を押え大刀を抜こうとしたので、長者の家人、与四郎、助七、孫左衛門、十兵衛の四人が障子を蹴破って飛び出し、蔵人をひっつかんで投げ飛ばし、各々ほこをとって左右から動けば突くぞと、取り巻いた。人々がこの物音に店いて集り、門につるした相国の太鼓をたたいたので「すわ一大事が起こったぞ」と、武器を手に手に集まった家来が3,000余人「一人残らず討ち取ってしまえ」と、口口に叫ぶので、さすがの勇猛強気の蔵人も大いに恐れて、ふるえ上がってしまった。
そこで、伊利の大臣が「どうしても姫が差上げられないなら、白布千枚、黒市千枚、錦千反、唐綾子巻、珊瑚玉、五百粒、瑠璃玉、五百粒を献上せよというと、家人らは「これまで都合三度の御難題、このたびだけは違背なく献上するが、今後はお断り申す」といって、騒ぎは静まった。けれども方々から遅れ馳せに家人が集まり、大平九郎、同五郎、緒方十郎、河登二郎、同小二郎、山田の四郎を先頭に、数百人が皆甲冑に身を固め、弓矢を携えて蔵人の所為の不都合をののしったが、その姿のたくましきに、勅使一行はみな震えあがって恐れ入った。
この時、76才の柿本原忠左衛門が進み出て「われわれは鎮西の辺鄙に住んでいるから武骨ではあるが、古武士の道は少々覚えている。勅使のお慰みに御覧に入れよう」と厚さ6分の鉄楯を的に、5人張りのつるに15束の矢をひょうと射ったが、
3筋まで羽ふくらませて射徹した。それから若者たちが板3枚を重ねて、各3筋まで射抜いたりし、次々と兵衛武芸をして見せたので、勅使一行は胆を冷やして恐れ入った。
10.真名野長者の号を賜る
3回目の献上品も、警衛の人々がこれを守って海陸から送られた。
勅使伊利の大臣が、小五郎の盛んな繁栄ぶりと、出来ごとを詳しく申し上げたところ、帝は「三度の難題を申しつけたことは朕の過ちであった。罪科をゆるして官領を下す、小五郎を「豊後の国王江の里真名野長者と称号す。」と、綸旨を賜わった。 |
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