▲般若姫誕生
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8.唐勅使来朝、玉桧箱並びに勅使下向
欽明天皇21庚辰4月、(一説には欽明天皇13王申歳般若姫11才になり給う所とある)姫が12才の時、唐の長安の都から明帝大王(一説には文帝王とある)の使者が、船頭竜伯の案内で画工細工の名人夷管褒薩の兄弟を召連れて、長者のところに来た。それは姫の美しい
ことが唐土までもうわさが高くなったので、姫の写し絵をさせようというのであった。長者夫婦は大そう喜んで、―行を厚く待遇したが、この時勅使が長者に差し上げた進物は、黄金500両、璃璃玉500粒、珊瑚500粒、蜀紅の錦100巻、楚国揚項こ山の姥柳の揚枝12本、という珍宝で、これを錦の袋に入れて、その上に大王の宸筆で「朕贈与焉」と書かれてあった。
名工二人による写し絵は、実に立派なものであった。名工2人は姫の写し絵を2枚作って、これを玉絵箱に収め、一箱を姫に与え、他の一箱をもって一行は長安に帰った。ところが、その翌年の秋竜伯が来て「玉絵箱を帝王がごらんになって非常に,心をひかれ明け暮れ箱を御身から離されず、ついに恋い悩まれたのがもとで、今年の3月に崩御されました。御病気の中に般若姫への形見として、七宝の天冠、錦の御衣、鸞絞の差貫、綿のしとねを、唐櫃に入れさせ、飛竜という剣を添えられてありました」といって、その遺品を差し出したので、長者夫婦は、文帝の崩御を嘆かれ、形見の品をありがたく受けられた。このことが大評判となって、いつか、帝都にきこえて欽明天皇22辛巳歳
(―本には14癸酉歳とある)2月中旬帝は、皇子のお妃として、姫を帝都に差上げるよう北面の武士隼人正を勅使として、豊後に差向けられた。隼人正は、同月25日白杵港に着船
(翌日三重の長者の館に入り、小五郎に姫を皇子のお妃として帝都に差上げるよう宣旨を伝えた。
長者夫婦は、勅使を厚くもてなしたが、一人娘であるので、たとえみかどのおおせでも、都へ差し上げるわけにはいかない旨を、涙を流して頼んだので、さすがの隼人正も、もっともなことと承知し、その代りに、このまま帰えるわけにはいかないので、唐土の名人の作った玉絵箱を献上するようにといい、夫婦も娘には、かえられないので献上することにした。隼人正は、その見事さに仰天しそれを受取って帰京した。 |
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