釜が原の栄福寺の境内に、九郎衛門と半左衛門の二人を弔った墓がある。
これは貞享3年(1686)旱魃で、秋の実りが非常に悪かったが、当地に年貢減免の沙汰はなく、農民の苦痛は見るにしのび難いものであった。
この様子を見て名主の半左衛門とその子九郎衛門は、農民の苦衷を時の藩主に直訴した。
このために二人は岩国の牢につながれ、やがて貞享4年3月釜が原で処刑されることになった。
半左衛門父子の直訴の事情が藩主に認められ、死一等を減ぜられることとなり使者がたった。
しかしその使者が黒沢まで来て庄屋の家に一泊したため、処刑に間に合わず刑は執行されていた。
名主半左衛門は処刑される前、羽織、袴に威儀を正して「私ら二人は散っても行くが、後に咲く花枝折るな」、という辞世を残し地域の隆盛を願ったという。
この地域の人は彼らの心情を偲び、この永福寺で鎮魂の祈りを絶やすことなく今日に至っている。
なおこの永福寺は四境の役の際、北門団も屯営所として安芸国境を望む長州軍の拠点の一つとなっていた。 |