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| 水の恵み | |
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潮音洞完成の結果は想左衛門の構想のとおり鹿野村の水利は甚だ恵まれたものとなり、上野原の二十一町七反三畝の潅漑と、そして新しい鹿野開作四十町歩の用水、さらに附近住民約300戸の飲料水を得ることができた。 想左衛門の潮音洞と水路完成の報告に接した藩主毛利綱広は、その功を賞し且つ元来毛利家の家臣であった家柄を聞いて彼を士分に列した。これをみるとかの箱根疏水の掘開者友野与右衛門が工事完成後幕府に捕われて悲惨な最後を遂げていることを想起して、萩藩の農村振興についての態度には自ら異なったものがあることがあることが考えられる。 なおこの隧道を潮音道と名付けたことは当時の記録にはないが、風土注進案には
としている。潮音の名は観音菩薩のように、慈雨を注いで民を潤すといった意味で、観音経普門品の「梵音海潮音、勝彼世間音」からとったものとかいわれている。 しかし、想左衛門の潮音洞掘開には、村人のために水利の便を計ることと、併せて自力開作を得ようとする目的があった。彼は私費をもって水路を開通させた後直ちに小谷原の新開に取りかかり、これを終わって藩の検地を待ったのであるが、給領地としての認可がなかなか下りないうちに潮音洞完成から11年目の寛文2年(1662)8月1日65歳でその波乱の生涯を閉じたのである。 このようにして、岩崎想左衛門の潮音洞完成によって鹿野村の新田開発には一転期が画され、三井善右衛門開作や漢陽寺開作、さらに湯浅開作等次々に開作がおこり想左衛門の没後約80年の元文5年(1740)年には、鹿野村の石高および田畑数は約2倍にも近い増加をし、現在の鹿野町農業の基礎をつくりあげている。 こうした想左衛門の功績をたたえた頌徳碑が漢陽寺裏、水路出口の上に建てられている。 なお「惣左衛門」と書かれた文献、出版物も多いが、「想左衛門」が正しいようである。 |