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潮音洞掘開計画図

工事はじまる
 藩の許可を得た想左衛門は許可状にもとづき漢陽寺住職の同意を得た。この当時の住職はその名が記録にないのではっきりしないが、寺は中興開山雲宗閑禅師の再興以前の衰微した時代で、石州(島根県)本覚寺や村内の善居院、岩松院等の塔頭末寺の輪番経営の状態であったと思われる。
 さて想左衛門の水路掘計画には、請願書に見えるように二つの方法が考えられている。その一つは漢陽寺の裏山を掘抜いて渋川の水を鹿野市に落す方法(図第1案)であり、他の方法は山を掘り抜かずに西にのびて撤骨山の山裾に沿って水路を迂回させる方法(図第2案)である。一見工事が容易にみえる第2の方法も、結局は山裾の屈曲点で岩盤を掘ぬかねばならず、しかも距離が長くなって第1の方法と五十歩百歩であるので、想左衛門はついに第1の方法を選んだ。
 工を起こした想左衛門は資産を投じこれが完成に向って努力してが、山の裏口から表口までは直線距離にして四十四間(約80m)、その間はことごとく岩盤であるため工事は困難を極め人夫の技術も未熟であり、工具もまた不備であって工事は遅々として進まなかった。現在潮音洞の出水口の東方約16mのところに別の洞口があって、寺では井戸として使用しているが、想左衛門は初めここから掘り進んだが方向を誤って上方に向かって進んだため中止して改めて現在の地点から掘り直したものと考えられる。また、工事は山の両端から掘り進んだが、その方向と高さを調整するのは甚だ困難であって洞内は右曲し或いは左折し、高さも不揃いであることは当時の苦心の程をまざまざと感じさせる。
 こうした苦心を重ねながらも想左衛門は鋭意工事を継続し、起工してから足掛け4年の歳月を費やし、承応3年(1654)渋川の取水口から洞入口まで約2km、洞内は屈折があるので約100mの水路を通って渋川の水は遂に潮音洞からほとばしり出たのである。この水はさらに漢陽寺境内を通って水利の不便を嘆いていた鹿野の里に流れ下ったのである。想左衛門の喜びはもとより、これに協力を惜しまなかった村人も歓喜の声を挙げて工事の成功を祝い合ったことであろう。

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