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岩崎想左衛門の像
 
岩崎想左衛門の計画
 潮音洞の掘開者岩崎想左衛門重友は、富田(現新南陽市)に生まれた。
 岩崎家は甲州武田源氏を称え、初めは伊沢(石和)の姓であったが想左衛門から17代前信隆の時(承久の頃−1219〜1221)甲斐国(山梨県)八代郡岩崎村に移住して岩崎姓に改め北条氏に属していたが、信隆から12代目にあたる忠重の時(応仁の頃−1467〜1468)備中(岡山県)小田郡岩崎村に移った。この頃岩崎氏は毛利氏に属し、忠重の孫忠直は尼子合戦に参戦して毛利元就から軍忠状を与えられている。またその子重正は毛利輝元から加冠の判物を頂戴している。忠直は天正16年(1583)清兵衛と改名し周防国都農郡富田村(新南陽市)に移住し、慶長年間(1596〜1614)士分を返上して農を営んだといわれている。その孫が想左衛門である。
 彼は慶長3年岩崎助右衛門重貞の長男として富田村に生まれたが、その頃岩崎家は逆運にあって9歳のとき真宗善宗寺に入れられた。しかし時がたつにつれて彼は逆境を克服して家運再興に夢をかけ野心に燃える少年に成長し、14歳のとき寺を出てしまった。成人して鹿野村の農家田村善兵衛の養子となって鹿野に移り四男四女をもうけたが、家名再興を計るため田村家を長男作右衛門重敏に譲り、自らは独立して岩崎家を立てている。彼は父祖以来毛利家の家臣であったことを力説して、元和4年(1618)彼が21歳のとき鹿野山方役に仰付けられて早くも家名再興を成し遂げていた。
 鹿野村の地形は盆地状で、土地は一般に高く、唯一の水源である錦川は村の中央を流れていながら、最も低い部分にあってこれを利用できず、村人は潅漑用水だけでなく飲み水にも困る状態で、村の低地を流れる川をうらめしく思っていた。
 経済力のあるものは自家用の井戸を掘っていたが、それも水枯れになることが多く、多くの村人は遠方から水を運ばねばならぬ状態であった。水桶を肩に老若男女を問わず水汲みをしたが、こうした労働は村人にとっては大きな負担であった。
 このような用水の不便を打開する方法について、想左衛門はひそかに考えるところがあったけども、当時としては工具といえば鍬とのみしかなく、測量技術も幼稚であって、その工事は容易ではないことが想像されて、自分の考えを生かすことができず日々腐心していた。慶安4年(1651)彼が54歳のある日、一日漢陽寺に詣で裏山を散策している途中、温見の谷あいを流れるその清らかな、そして水量豊かな錦川の支流渋川をみてこれをこの高地に引くことを考えついたのである。早速桑原甚左衛門に相談し、この裏山を掘って水路を作る計画を立てた。そして5月9日この工事の許可願を藩府に請願した。その内容を口語風に書くと、
請願書

一、  鹿野の市には水がなく、53人は自家用の井戸を掘っておりますが、残りの者達は、遠方より水を運んで参るのであります。井戸の水と申しましても、ひでりには水が切れて、難儀致すのであります。それで温見川(渋川)の水を漢陽寺東側の峠下を、漢陽寺の内に掘開するか、又この寺の裏側の山裾に水路を掘開しまして、温見川の水を鹿野市に通しますよう私が自己資金を持ってやって見たく存じます。右のように水を引くことができますならば、火の用心のためにもよろしいと存じます。右の水をもし引くことができましたならば、この水を落とす最後に小谷原という原野があります。この広さは田が一町五、六反開作出来る余地がありますので、私が開作いたしたいと存じます。そのようになりますれば、私の扶持方にお加えとなり給領地に下さいますようお願申しあげます。

慶安4年5月9日  岩崎想左衛門


門田七右衛門殿

 この想左衛門の請願書に対し、慶安4年10月2日付をもって当職児玉民部少輔元征より次のような許可が出された。
「右の山を掘抜いて、鹿野市へ水を取り入れれば市中の者便利がよくなるということであるから、其方が自己資金で掘り抜くという請願については承知する。漢陽寺の内に溝を掘るという事は、住職に別段の異議がないならば掘抜いてもよろしい。然して此掘抜きが完成したならば、小谷原の原野一町五、六反の開作のことも承知する。掘抜きができ開作を完成したならば給領地としてさし遣わすからそのときは申し出て検地を受けるように。以上、
慶安4年10月2日  児玉民部少輔元征  岩崎想左衛門殿」

 萩藩においても、すでにこの前年の慶安3年には最初の藩営開作として吉敷郡小郡の古開作、名田島の慶三開作を築立てており、後の万治3年(1660)の万治制法においても
「昔からの野山干潟の地を家来達が新しく開作しようと望むものがあって、奉行所に願い出た ときは、よく調べた上で伺い出よ、望みの者にはこれを許可する」

と藩士や町人、百姓らの開作を奨励しているので、このような時期に願い出た想左衛門の企画は、民営開作の最初のものとして支持され、許可されたのである。
 

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