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消災石

蔵掛山城趾(鞍掛山)

撒骨山砦

 
蔵掛山城趾(鞍掛山)
 この城跡は、吉見某の居城の跡と伝えられており、今でもこの山の頂上付近には風呂屋壇とか筒井壇・馬屋敷などの地名が残っており、山麓にもお堂ヶ浴・うつぼヶ浴・甲ヶ浴などの地名が残っていて当時の城の規模をしのばせる(注進案鹿野中村の項に江良弾正忠の居城とある)。
 城主吉見某は非常に悪い城主で、水木銀と称して村人が日常使用する飲料水や薪に税をかけ、また、穴銀といって人が死んで墓を作ればそれに税をかけるなど常に村人を苦しめていた。城下には比丘尼寺というお寺を建てて村内の美しい女性を捕らえて押し込めたり、多くの人々を理由もなく殺して一ヶ所に埋めるなど、その悪行は目に余る程であったという。このため村人は非常に貧しくなり、お正月が来ても着るものもなく、食べるものもなく、人々は寒さに耐え切れず家の前で薪を焚いて飢えにおののきながら寒さを凌いだのである。この地方の人々は夜空に寒々と燃える焚き火を見て吉見の火正月と呼んだといわれている。
 お城には藤岡兵庫・山中播磨・長沼十五郎という三人の家老がいたが、城主にへつらいこそすれ乱行を止めようとはしなかったから、ますます悪行はつのるばかりであった。
ある時この三人の家老たちは野上家という金持の家に目を付け、これを殺してお金や財産を取り上げることを相談し、城主に言上したところ城主は早速これを許したが、しかし、このことを家臣の中の浦見主計という正義感の強い家臣に聞かれてしまった。浦見は野上家に走り、このことを告げると共に日ごろから城主の悪行に腹を立てている村人をひそかに集め城主と戦うことを諮った。村人は全員が賛同し蔵掛山の向かいの撒骨山に砦を築き一戦を交えることを決意した。城中でも心ある人々は主君の悪行に憤りを感じていたので、このことを聞くとぞくぞくとこの砦に集結し、戦に参加した。
 戦は浦見主計のひきいる村人の方が勝ち、家老たちは自刃したり逃走し、城主は捕らえられてしまった。浦見は城主をころそうとして、

幾年の吉見も今は絶え果てて
    浦見(恨み)の刃思い知れ君


と怒りを歌に詠んだ。城主はこれに応えて

  いかにせん吉見は悪しと覚ゆれば
     浦見(恨み)の刃法のみちびき


と詠じた。浦見はこの返歌に感じて城主の一命を助けて追放した。その後、浦見主計は九州の地に行ったという。