
<資料館外観>
慶長5年、毛利氏が防長二州にふうぜらたとき、周防最東端の国境に位置する山代の統治と軍事的要地として、本村に山代代官所を置きました。資料館は藩政最後の山代代官所(勘場)の正面玄関である御門長屋を模したものです。 |
本村は非常に古い歴史をもち、当村中心部周辺の山裾からは弥生式住居跡や土器、土師器、須恵器なども出土しております。
当山代地方は、周防東北端の安芸石見の国境に位置することから、戦略拠点として大内氏や毛利氏に重要視され、戦国時代の安芸への攻防や幕末四境戦のときも、本村を本陣として安芸浅原口から廿日市に進撃しました。
毛利氏は藩政頭初本村に山代代官所を置きました。このような関係から代官所の周辺に在郷町が発展し、市屋が軒を連ね、六斉市も許されていました。
また、この頃山代地方は、和紙の生産地で、「やましろがみ」の商標で大阪市場でもよく知られていました。藩は紙の専売制度をとり、農家に紙の生産を強制的に割り当てる請紙制度や、山代年貢を換算して紙でおさめさせる紙單(ひとえ)による年貢納入など特殊な制度をとっていました。
一方では藩紙すき農家の紙の生産費に充当するため、同じ山代農家に紙の生産額に見合う米を年貢として納入させ、これを紙すき農家に紙生産費として支給する方法をとり、米の生産にも力をいれておりました。
しかし、明治以後手すき紙は機械製紙に圧迫されて急速に衰え、大正初期には殆どその姿を消しました。その後の農家は米麦を中心とした農耕と、若干の特産品や蓄牛飼育、林業などを兼ね生計を立てておりました。
当資料館では、このような歴史のあゆみの中で、郷土の人々の生活や生産を支えて来た民具を、収集展示しようとするものです。 |
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