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天才医学者 防長考古学の草分け 革新の騎手

革新の旗手 山田 耻目(はじめ)(1922〜)

 大正11年平生町大野南の農家の次男坊に生まれた。小学校をおえると、母からもらった20円を懐に遠い親戚を頼って単身朝鮮に渡った。昭和12年当時の朝鮮総督府鉄道学校を卒業、釜山鉄道局に勤務したがほどなく病に倒れて帰国した。そのしたたかな強さと誠実な人間愛は異郷における苦難の時代にはぐくまれたものであろう。
 16年健康が回復して広島鉄道局に復帰、鉄道教習所教官などを経て国労誕生に参画し広島地本委員長、本部書記長など歴任した。国労運動の草分け的存在である。
 38年社会党に属して衆院選に出馬、見事に当選して保守王国といわれる山口二区にクサビを打ち込んだ。当時40歳で衆議院議員の中では2番目の若さであった。以来党内でその実力を買われ、中央執行委員をはじめ国民生活局長、減税対策特別委員長として策通としても知られ、国会では大蔵委員会の筆頭理事として活躍していた。
 順子婦人とは鉄道教習所時代の師弟コンビ。夫婦そろって原爆の被爆者であり平和運動への熱意も人一倍強かった。
 政治信念は「人間愛を基調とした政治の創造」。いつもほほえみをたたえた彼は、大衆との接触を大事にし、週末にはつとめて帰郷してその声に耳を傾けた。
 革新の旗手として歩み続けた彼を志す人は今も多い。