平生の漢方医、わけても眼科医として「法眼」の尊称を与えられた岡泰純の二男として生まれた研介は16歳の時広島に出て蘭学者大槻磐水の門に入り、ここで坪井信道と交友を深め、ともにオランダ医学を日本に広めようと誓い合ったという。
20歳の若さで萩に開業したこともあったが、間もなく広瀬淡窓(日田)亀井昭陽(福岡)について漢方を学び、26歳の時更に長崎に出てシーボルトの鳴滝塾に入学した。この頃の学友には高野長英・伊藤玄朴などがおり、帆足万里・坪井信道も物理化学面で研介から蘭書を借りたようである。
鳴滝塾を出て下関・大阪で開業し、一時岩国藩にかかえられたこともあったが、再び大阪に出たという。大阪に出てからの彼は昼も夜も本を離さず勉強しすぎてノイローゼになり、ついに発狂して「追ってにねらわれている」という幻想に悩まされながら、しかも勉強は続けたという。
後また養生かたがた郷里近くの岩国藩につかえ、近隣の子どもに四書などを教えることもあったが、後平生に帰って41歳の生涯を終わった。 |