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| 大昔の平生 | 古墳時代 | 前方後円墳 | ||||||||
| 旧石器時代 | 歴史の始まり | 巴形銅器と盾・埴輪 | ||||||||
| 縄文時代 | 縄文人と岩田遺跡 | 平生湾の古い古墳 | ||||||||
| 鎚の芸術 | 神花山古墳・黄泉の国へ | |||||||||
| 縄文人の四季 | 須恵器と土師器 | |||||||||
| 石の交易 | 大木崎古墳・馬具 | |||||||||
| どんぐり貯蔵穴 | 歴史時代 | 熊毛の郡衛・熊毛の浦・塩作りの浜 | ||||||||
| 農耕の芽生え | 平生町の歴史の移り変わり | |||||||||
| 蒸器と調理・呪術の社会 | 平生町の史跡と指定文化財 | |||||||||
| 子供の墓 | ||||||||||
| 弥生時代 | 米つくりの時代 | |||||||||
| 高地性集落・弓矢の戦争 | ||||||||||
瀬戸内海地域に人々が生活しはじめたのは、今からおよそ数万年前ごろからである。そのころはまだ瀬戸内海はなく、そこにはナウマンゾウ・オオツノジカ・ニホンムカシジカなどの動物がすみ、人々はこのような動物を追って大陸からやってきた。 今から5,500年前ごろになると、現在のような瀬戸内海が成立する。人々は野山にシカ・イノシなどの動物や木の実などをあつめ、海浜で貝や魚をとる採集の生活がひろがった。熊毛半島の東岸では柳井市の与浦遺跡(縄文時代前期〜後期)、熊毛半島の西岸では平生町の岩田遺跡(縄文時代中期〜晩期)などにはじめて縄文時代の生活がみられる。岩田遺跡から出土した縄文後期の多量の石鏃や石錘は、弓矢を使った狩猟や網を利用した魚とりのひろまったことを示してる。縄文晩期になると、打製石斧とよばれている土掘り具や穀物の穂つみに使ったらしい磨製の石鎌などが出土しており、このころから農耕がはじまったのであろう。またこの時期には、地面に円筒形の穴をほってドングリ類を貯えた貯蔵穴群が発見されており、植物質食料を中心とする生活であった。 稲作を中心とする弥生文化は、二千数百年前ごろから九州から近畿・東海地方に急速にひろがった。岩田遺跡では縄文時代から弥生時代の前期までの遺物が出土しており、平生地方の農業がこの地ではじまるとともに、弥生文化を瀬戸内の東の方に伝える重要な役割を果たした。弥生時代の中期・後期になると、人々は平生湾奥の沖積地の縁辺に住居をかまえる。中土井遺跡・松尾遺跡などは、岩田遺跡ではじまった農業の可耕地をもとめてひろがっていった様子を私たちに示している。また弥生後期には、吹越遺跡に代表されるような高地性遺跡があらわれる。瀬戸内の各地にはこのような遺跡が点在しており、―種の防塞とみられ、わが国の政治的統―にあたっての動乱を物語るのであろう。 農業の進展によって各地に地縁的な社会が成立し、そのなかから地域を支配する首長があらわれる。古墳はこのような人々の出現を具体的に教えてくれる。平生町では4、5世紀の古墳時代の前半期には、神花山古墳・阿多田古墳・白鳥古墳などが海をのぞむ丘陵上もしくはかっての島などにきずかれている。柳井市の茶臼山古墳なども同様である。これらの古墳はいずれも前方後円の形をなしており、わが国を統―しつつあった大和の政権との密接な関係をうかがわせる。なかでも白鳥古墳は5世紀中ごろの前方後円墳であり、全長120メートルという規模は山口県では最大である。とすると白鳥古墳をきずきそれにほうむられた人物は、平生地方を支配したというだけでなく、のちの周防国全域を代表とした豪族とえよう。またこの古墳が海をのぞんだ場所にきずかれたところからみると、瀬戸内海の水運などにも重要な役割を果たしたにちがいない。6、7世紀の古墳時代の後半期になると、大形の古墳はのちに国府のおかれる防府市の地域に集中する。大木崎古墳や東前寺第9号古墳などは、後期古墳のなかでは平生の地域を代表する人物の墳墓である。奈良・平安時代には、大野、中村遺跡出土の古瓦類やその位置などからみると、律令国家のなかで整備されていった周防国熊毛郡の郡衙の所在地であった可能性がつよい。古代の平生町は、熊毛郡の中心的な地域に位置づけられる。 |
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