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![]() ▲御国廻御行程記・宇田村 |
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[福田と粟屋氏] 粟屋元吉は幼にして輝元に仕え、輝元と秀吉から元・吉の字をもらった。寛永2年福田高佐800石の領主。隠居剃髪して小澤津正法寺寛永5年没。3子が柏木に太用寺を建立。寺号は元吉の法名太用宗乗によったもの。長子元忠が福田領400石を次いだが、5代光任の時領地返還扶持米となりました。 |
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[宇田と榎本氏] 榎本氏も元吉、元就、輝元、秀就に仕え藩政の重職にあり、後を次いだ2男就時も当職として綱広に仕えて、万治制法を作り、就重は興昌寺開基、以下宇多村の領主であると共に奇組として毛利氏に仕えました。 |
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[惣郷と児玉氏] 寛永8年(1631)児玉元恒は惣郷550石その他合わせて1500石の領主となりました。父忠唯が二の丸様の兄ですから、毛利秀就・就隆(徳山藩主)とはいとこです。彼は当職の後川上村椿瀬に隠居。寛文9年(1632)ここで死没。いま椿瀬の元恒墓は明和5年の100回忌に建てたもの。惣郷桂昌寺は元恒の法号によったものですが、桂昌寺は元恒の4代後の広恒が正徳5年(1715)長門深川の耕雲庵を移し、享保5年(1720)桂昌寺と寺号替したものですから、注進案付箋にあるように開基は広恒でしょう。 |
![]() ▲白須たたら製鉄遺跡発掘現場 |
![]() ▲白須山砂鉄洗取図 |
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[徳山領奈古] 元和7年(1621)徳山藩主毛利就隆は、父輝元に強く希望して、都濃郡9ヶ村を奈古・大井を含む9ヶ村と交換し、のち居館を野上(徳山)に移し名実共に徳山藩が成立しました。奈古には勘場が置かれ所務代が来て、近世を通じてその宰配を受けました。他の木与・宇田・惣郷・福田・宇生賀の村々は、萩藩(長州藩)の奥阿武宰判に属していました。萩城下を中心とする街道も整えられ、石州街道は海岸沿いを仏坂道筋が、福賀地区を土床道筋が通っており、奈古や宇田の港も賑わいました。また、惣郷村では、白須山の北麓に鉄の精錬所(たたら)があり、阿川の砂鉄を海路輸送し製鉄を行っていました。 |