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![]() ▲本光院観音堂 |
![]() ▲深田埋木 |
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[宇生賀と俊乗房重源] 平安末期から阿武郡は後白河法皇の寄進で長講堂領という皇室御領になりました。法皇は東大寺を再建するため、周防国の他、阿武御領もその造営料所とされました。そこでその責任者の俊乗房重源は、大井川上流にも入っていきましたが、宇生賀盆地の「深田埋木」はその時の用材の切り株とされています。また本光院観音堂の聖観音像と、薬師堂の薬師如来像は、重源がこの地の悪疫退散を祈って奉納したといわれています。しかし重源の仕事は長門国総追捕使土肥実平の子遠平とその代官が、地頭職を解任されても残って妨害したので、法皇の意を受けて源頼朝は、文治5年(1189)阿武郡内を退散するよう命令を出しています。 |
![]() ▲本光院聖観音像 |
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[戦乱の舞台] 南北朝時代、延元2年(1337)5月11日、石見国の南朝方の三隅兼通は、北朝方の益田氏の勢力下にあった阿武郡に進出し、福田・宇生賀を焼き払いました。茶臼山・亀甲山城跡もこの時代からのものでしょう。室町時代になると、大内氏は守護大名として台頭し、阿武御領の年貢収納を請け負い、やがて完全に押領します。大内盛見は、筑前・豊前の守護となり、日明貿易港博多を支配、応永15年(1408)豊前宇佐八幡宮を造営しますが、その時の材木奉行が奈古若狭守重光です。彼と奈古の関係はわかりませんが、奈古に所領があったことは「閥閲録88波多野仁右ヱ門」でわかります。戦国時代、阿武郡は益田氏と吉見氏の対立の舞台となりました。吉見氏は須子若狭守秀国を奈古浦北西の櫛崎山城城主としました。秀国は櫛先山城を撤退。しかし吉見正頼が阿武郡を回復したとき「鷲江山」で激戦があり、正頼が感状を出ました。貰ったのは秀国で、鷲江山は櫛崎山の雅称と考えられます。いま山上に石垣はありませんが、中世後期の典型的な土塁構造の遺構が残っています。 |