
明治10年(1877)5月30日、明木に着いた町田党は、その夜10時頃、戸長滝口吉良宅に放火した。そのいきさつについて、元村長児玉勇氏は、「萩の変の記」に次のように書いている。
町田の同志田中圓亮なる者が、夕方配下数名を連れてきて、目をぎらぎらさせて、
「今の政府のやり方はなっちょらん。官吏のよつらは、私腹を肥やすことしか考えちょらん。このままでは、日本はまた昔にもどる。わしらは、今から兵を起こして県庁を襲撃して官吏を反省させる。ついては、兵器や軍資金がいるので、寄付を頼む。」と荒々しくいった。夜のことでもあるし、
「米なら少々はある。」と言ってやったが、配下の者が、
「けちけちするな。けびると家をひっくりかえすぞ。」と叫んで、大黒柱にかけてあった引き網(昔、家を新築したときに、棟木を釣り上げた大きなわら縄)をとって、柱にきびって、5・6人の者が引っ張り出した。
そばで見ていた滝口家の使用人の田中某(田中又五郎の父)が、すわ大変と鎌をもってその縄をぶち切ったので、引っ張っていた配下の者どもは、ひっくり返って尻餅をつく者や、池にはまった者もあって、おかしかったが、笑われもしなかった。もとより5・6人で、建ててある大黒柱が倒れるはずがない。それがわからないほど、彼等は血迷っていたと思われる。
おこるまいことか、その連中ども、
「こん畜生、ぶっ殺せ。」と抜刀して追いかけたが、そこは地の利に詳しい田中某、しかも、闇にまぎれて姿を消して無事息災。
この腹いせに、田中圓亮の配下の手によって放火の災難をうけた、と滝口吉良が児玉張三(児玉勇の祖父)の案内で、川上村に逃れる時話したということである。 |
町田梅之進が亡くなった1年前の、明治9年(1876)10月17日に、「萩の乱」といわれる前原騒動があった。前原党は、旧明倫館を占拠して決起し、沖原製造所から小銃・弾薬を奪い、山口へと進撃した。途中、佐々並の板橋で、多量の兵器をもつ官軍の迎撃にあい、次第に後退して萩に押し返された。この時のことについて児玉勇氏は、「萩の変の記」で次のように述べている。
当時、20歳であった中谷タツ女(明木上市中谷秀作の養母、安政三年、1856年生まれ)の口伝に曰く。
26日夜から27・8日にかけて、明木駅に陣羽織、あるいはたすきがけ、股引、きゃはん、わらじ姿の旧武士とおぼしき人達が急増した。駅はてんてこまいとなり、付近の人が手伝いに徴用され、事の様子はほぼ承知した。中には鉄砲を持った人もいたが、刀をさして、たすきがけの人がほとんどであった。また、児玉みち女(児玉勇の祖母、文久元年、1861年生まれ、当時16歳)は、次のように話していた。
自宅が明木野地にあって、27・8日の朝起きてみれば、蔵屋・野地あたりの田の中にあるとしゃく(積みわら)の陰に。三々五々、黒い洋服(軍衣)を着て鉄砲を持った兵隊が、隠れているのを目撃したので、ぶっそうでならなかった。別に撃ち合いの音はなかったが、29日頃からは、敵味方はよくわからなかったが、負傷者が、中には戸板に乗せられて、一升谷を経て瑞光寺にたくさん運ばれるのを見た
30日は、激戦の様子がうかがわれたので、市・牛地・笛吹・蔵屋・権現原の住人は、横瀬・角力場や川上方面に逃げて、事変のとばっちりをさけた。 |
 
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