 
明木農業協同組合の前に、「右せき道左山口道 千時慶応三ヶ卯歳建之(1867年)」という道標がある。1740年頃の地図によると、道の分岐点は堂尾になっているので、この道標は、何度かの道路改修で移転されてここにきたと思われる。堂尾には、萩から二里(約8q)、赤間関から十七里(約68q)を示す一里塚もあった。
堂尾を過ぎると道は茶屋川にそって、往還の面影を最もよくとどめてい一升谷に入る。一升谷は、釿切まで約2qの上り坂道で、昔から、あまり急な坂道のために、この坂を登りきるまでにちょうど一升なくなることから、このように呼ばれてたといわれている。
山間に入って、道の左側に田圃(でんぽ)があり、しばらく歩くと、道の左側に幅約1メートル、長さ約40メートルにわたって石畳が、釿切まで数カ所ある。
400年の風雪に耐えた石畳である。
石畳を過ぎてしばらく進むと、左側に、町田梅之進自刃地がある。そして、その奥まった所に、「東京行司木村久治墓」と書かれた墓石がある。東京、行司、木村となにかいわれがありそうだが、はっきりした言い伝えがない。 |

▲一升谷の石畳 |
▲一升谷周辺 |
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