秋穂八十八ヶ所霊場


 秋穂八十八ケ所の歴史は古く、江戸時代天明3年(1783)に遍明院八世性海法印が四国霊場から御符と御砂を持ち帰って霊域を定めたと伝わっています。第一番札所は、正八幡宮境内に隣合う大師寺。第八十八番は、宮之旦公民館近くにある大師堂で、本尊は子安大師、子供の病気に霊験あらたかと伝えられています。旧暦3月20日・21日の弘法忌には、秋穂は道ゆくお遍路さんの姿と菜の花に彩られます。

1.法境秋穂
 秋穂は平安の初期天台宗の開祖伝教大師や真言宗の宗祖弘法大師が諸国教化の途すがら、風光明媚な当地を訪れ、幾多の堂塔を建立されたと伝えられる古くからの法境の地という。ことに仁和寺の高僧行遍、了遍の下向により田代山善城寺、朝日山千光院(真照院)、平原山仁光寺(戒定院)の3寺が真言宗秘密伝法灌頂の道場となって、真言宗寺院は殊の外栄え、西の高野と称されるようになったと伝えられる。このような由緒のある秋穂に遍明院第8世性海法印により四国八十八ヶ所の霊場が天明3年(1783)に勧請され、県内はもとより県外からも多くの参拝者が訪れるようになった。

2.秋穂八十八ヶ所由来
 遍明院第八世性海法印は、宗祖弘法大師の御遺徳を慕い幾度となく四国八十八ヶ所を巡拝した。そして、衆生済度の願いをこめ天明3年(1783)42歳のときに八十八ヶ所霊場を秋穂の地に勧請しようと遍明院檀家の中で最も篤信の志のある下村畠田の人、戎屋作右衛門(後に遍明院の役僧となり善心法師と称し、俗に後生作兵衛と呼ばれた。)とともに四国八十八ヶ所の霊場、第1番阿波の国霊山寺より順次巡拝し各霊場ごとに御本尊の御符と敷地の土砂を受けて帰郷し、秋穂西郷に88の霊域を定めそれぞれの地に土砂を撒布し、その上に大師の尊像を奉安した。このようにして秋穂八十八ヶ所霊場は開かれた。勧請した当時は、他宗派の寺院や信徒の反感から一夜のうちにお堂が破られたり、大師のお像が取り去られたりすることもあったが、やがて性海法印、作右衛門は弘法大師の御遺徳を説き、祈願説法に一身を挺して布教したので、村人の心を打ち、大師の教えが郷の隅々まで宣布され、他宗派寺院も協力してそのお寺の中にも安置されるようになった。そして信者も年と共に多くなり、巡拝者は激増し、本四国を除いては全国的にきこえ高い霊場となった。

3.性海法印の別府縁起
 秋穂霊場の開祖性海法印が勧請を思い立たれたのは、別府の温泉に保養に行かれた時に発心されたと伝えられている。ある日、別府地獄湯の見物に行かれた法印は急に眠気を催し昼寝をされた。やがて夢にあらわれたのは、煮えたぎる湯の中に目覚えのある女の生首が浮きつ沈みつ法印に救いを求めている姿である。驚きのあまり目を覚ました法印は、何と恐ろしい夢をみたものか不思議な気持ちで夕刻宿に帰ってみると、多くの人々が騒がしく葬式の用意をしている。どうしたことかと尋ねられると、この家の女主人が急死したとのこと。近所の人の話では、その女主人は仏さまのように柔和を装うてはいたが、本性は人に嫌われる貪欲な人であった由。法印は夢と現実をあわせみられ、善悪因果の理法により造悪の者はおち、修善の者はのぼるというお経の言葉通りであることを深く心に感じ、いよいよ道心を固め下村の戎屋作右衛門とともに勧請に旅立たれたと伝えられる。それはあまねく一切の衆生を大師に結縁して仏果を得させようとの発願による。

4.開山・性海法印
 秋穂八十八ヶ所霊場の開山、性海法印は、寛保2年(1742)秋穂浦江ノ川の下流、髪形橋のたもとにあった伊勢屋に生まれた。姓は倉橋、のちまで続いた家柄でその末蕎は今も秋穂浦にある。幼少の頃から仏心の志篤く、7〜8歳頃に遍明院の住職恵淳法印の弟子となり、ひたすら修業を重ね20歳の頃より高野山にのぼり真言密教の修得を積んだ。帰郷してより朝日山真善坊(真照院)に住み真言宗の布教に努めていたが、師の逝去により遍明院第八世住職となった。天明3年(1783)下村畠田の戎屋作右衛門とともに、衆生済度の願いをこめ四国八十八ヶ所を勧請し、文化9年(1812)3月11日大願成就の喜びを胸に71歳の生涯を終えられた。また作右衛門も仏門に帰依し善心法師と村人から親しまれ、文政8年(1825)大村益次郎誕生の年に没した。今も両人の霊は遍明院開山堂にまつられている。現在の開山堂は昭和25年に建てられたもので、開山堂の本尊は如意輪観音、脇侍不動明王である。

秋穂・二島の氏神 正八幡宮 祭神、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、秋穂町宮之旦

 弘仁5年(814)宇佐より二島の海汀に勧請ののち、文亀元年(1501)大内義興により現在地に遷座された。御神紋は大内菱に巴。正八幡宮境内には弥勒が早くから開かれていたことは、宇佐八幡宮にならったことである。ついで秋穂、二島両郷の真言宗寺院側の申し出で、お宮の神職氏子代表も同意し八幡山に2間四方の大師堂を建てた。さらに貞享年中弥勒堂(1684〜88)お堂を4間四方と大きくし、大師堂と弥勒堂の相堂にして一緒にまつるようになった。秋穂八十八ヶ所霊場は、この秋穂、二島両郷の氏子である正八幡宮を中心に開かれた。(社伝、「寺社由来」)正八幡宮の本殿・拝殿・楼門および庁屋は、国の重要文化財建造物に、また鐘楼は町の重要文化財に指定され、この地方に室町時代より発生した独特の社寺建築様式を伝える江戸時代の代表的建造物として貴重な存在である。