第1番宮ノ旦 大師寺 本尊、弥勒菩薩正八幡宮 TEL(083)-984-4256
 正八幡宮境内に大師堂が開かれ、後に弥勒堂と相堂にして祭るようになった経緯は正八幡宮の項で述べた。それ故に弥勒堂と称し、また御影堂とも言い、本地堂とも言った。秋穂霊場の中心で、旧3月20、21日の弘法大師正御影供にはかっては秋穂・二島両郷の全真言宗寺院が集まり荘厳な法要が営まれ、近郷や遠方からもその法益に浴しようと熱心な信者が集まり、境内には「市」が立ち賑やかであった。現在の建物は大正6年(1917)1月着工、翌年3月竣工した。大師寺として独立したのは昭和27年からのことである。四国霊場の本尊は釈迦如来である。境内には水子地蔵・延命地蔵等多くの地蔵尊が祭られている。

第2番中野 釈迦堂 本尊、釈迦如来 管理寺、長徳寺
 現在も釈迦堂の地名と釈迦ノ本の小字地名がある。この付近は寛文年間(1661〜72)に建立した黒潟古開作地である。釈迦堂はそれ以後できたものである。かつては海蔵庵抱えのお堂であったところである。この釈迦堂建立の願主は大村益次郎の祖藤村家二代目の人であり、のちこの地を2番札所とされたのである。釈迦堂では、4月8日の釈迦誕生日に甘茶の接待を行って来た。四国霊場の本尊は阿弥陀如来である。

◇大村益次郎生誕地碑(秋穂町指定文化財)
 釈迦堂から西天田部落への入口に、NHK大河ドラマ「花神」ですっかり馴染みとなった大村益次郎の生誕地碑がある。益次郎の弟、文教の子孫の藤村氏が隣屋敷に居住されている。碑の前に「産湯の井戸」と伝える古井戸がある。

第3番黒潟南 本光寺跡 本尊、阿弥陀如来管理寺、福楽寺
 もと西天田の「虚空蔵庵」にあったが、のちに宮ノ旦に移り、更に昭和15年(1940)4月に今の黒潟南の本元寺跡に移った。本光寺は黒潟が吉敷毛利領であった宝暦6年(1756)、領主毛利広包の三女・於滝の方が、山口の妙泉寺預かりになっていた廃寺の本光寺をこの地に引寺し再興したもので、その昔大内時代の文明年中(1469〜86)にその家臣・安藤某が、日親上人の説法に感銘して山口馬場殿小路に建立していた寺で、法華経寺院であった。藩政時代には、この大師堂付近一帯に山林1町3反8畝と屋敷地3畝(高2升7合)の境内地があったが、今は古井戸と大師堂前の石碑(開祖於滝の方の供養碑で戒名は正受院妙来日法。明和2年(1765)7月19日没。)及び代々の住職の墓碑等が残っている。

第4番西天田 大師堂 本尊、観世音菩薩管理寺、福楽寺
 大師堂をまつる西天田北条組の年中行事として、3月20日に組内の総勢子供たちまでが当屋の家で会食し、慰安・親睦の日をおくり、大師堂では接待をする。この日のほか田植えがすんだ頃に主婦たちは泥落とし行事として、手料理を大師堂に持ち寄り慰安の会を開いた。また年配の人たちが月々大師講をする。四国霊場の本尊は大日如来であり、ここの本尊の観世音菩薩とするのは恐らく往時に観音堂の遺跡の地にあったのであろう。祭壇には福楽寺五世真龍和尚寄進の地蔵尊がある。

第5番東天田 天神社跡 本尊、地蔵菩薩管理寺、長徳寺
 寛保元年(1741)の寺社由来書に、この天満宮の社殿は一間四方、10月15日が祭日であったと記録されており、ながくこの日に祭りをしていた。この天満宮に5番札所が置かれた。今は大師堂の祭壇に天満宮を併祀している。本尊は地蔵菩薩で、8月24日の地蔵祭りにはここで盆踊りが行われた。もと海蔵寺管理の大師堂であったから、今は長徳寺がうけついでいる。そして西天田と東天田の一部の人々が祭り組を作っている。

第6・7番東天田 福楽寺本堂 本尊、薬師如来 TEL(083)-984-3459
 東天田の福楽寺本堂に6・7番札所がある。もとは福楽寺に6番、荒神社に7番の札所があったが、神仏分離により7番札所が福楽寺に移り、荒神杜は貴船杜と相殿になって境内東北の道路ぞいにある。四国霊場の本尊は6番・薬師如来、7番・阿弥陀如来である。福楽寺の山号は医王山、創建は天平18年(746)と伝える古寺で、御室派仁和寺末寺の真言宗寺院で、庭の雌雄2株のソテツは町指定の天然記念物である。本尊の薬師如来は御丈2尺8寸の座像の秘仏で、御開帳のときにだけ拝することが許された、鎌倉時代の作という。その御開帳は、寺が代官所を通じ萩の寺社奉行所に願い出て、藩の許可を得た上で行われた。御開帳の時は1ヶ月間拝観が許されたので遠方からも参拝者が多く、その賽銭、寄進で寺の増改築等をしてきた。藩の許可の御奉書は大切に保管し、次の許可申請時に証拠物とすることになっていた。そうした証拠物が今も寺に残っている。現在の建物は大正8年の建立。福楽寺の中興初代の快音和尚は、元禄の頃できた名田島の東開作、黒潟開作、惣在所開作などの開作築立に際し、無事築立の祈願をして納経、勤行をした。その功により寺開作を差し許され、今も黒潟古開作の釈迦堂西方に寺開作、寺道の小字地がある。

第8番東天田 福楽寺大師堂 本尊、地蔵菩薩
 もと東天田の大歳神社にあったが、神仏分離により地蔵堂に移り、更に福楽寺境内に移った。福楽寺境内には札所となった地蔵堂のほか子宝観音もあり参拝者が多い。ここの大歳神社には、特殊な当屋祭りの行事があったことが「風土注進案」に詳記してある。四国霊場の本尊は千手観音である。

◇天田の大蔵祭リ
 風土注進案に、当社の祭りには大当・脇当の者12月1日より祭日の3日まで、毎朝海に入り汐をかき、3日斎戒して藁で盆形をつくり、大当の者は一年中の米麦大豆綿菜種そのほか果菜類もとりおきこの藁器に入れ、ほかに神供3、小餅3重ね、一夜酒の神酒を3器共々神殿に供える。社人の神勅が終わると四ツ刻(午前10時頃)に森の外に神供を持ち出す。そうすると羽根の下の白い烏が来て神供をくわえ去る。これで祭りの儀式は終わる。烏が来るまではその他の鳥や犬猫も神供には近づかず、若しその日のうちに烏が来なければ大当脇当ともに家内の稜れを浄め、翌日またお供えを新たにして供える。少しでも稜れがあれば鳥は来ず、年によると57日間も来なかったことがある。そのときは毎日お供えを新たにして待つ。「よくよく心して清浄にすれば烏は必ず来る」と。烏を神の使いとしてまつる「こがらすの神事」は大海の大蔵祭りにもあった。「防長風土注進案」

第9番大河内 福楽寺分院 本尊、観世音菩薩
 もと東天田の疫神社にあった札所を神仏分離により福楽寺に引きあげ、更に現在の大河内にある福楽寺の隠居所に移した。疫神社の祭りは1月20日、東西両天田で行った。四国霊場の本尊は釈迦如来である。ここのお大師様で子宝をさづかり、大変喜んだという話がある。

◇天田の地名「風土注進案」に源順の「和名抄」に諸国の郷の下に餘戸(あまりべ)というものあり、今いう出村のことで、ここの天田も正税所(惣在所)、祢宜、神田などに対して餘り田の意であろうかとあり、また別説には天水田の地とも言う。

第10番東天田 東条大師堂 本尊、千手観音管理寺、福楽寺
 勧請当時、古いお堂があったらしく、今も堂内に数体の仏像がある。現在のお堂は昭和11年(1936)再建、講組で祭る。平成5年春御堂が再建された。旧棟札によると、この地が水不足で難儀するので水神の御加護を願って建てたとある。この札所はもとは高岸近くの道路ぞいのお堂に祀られていたのを、昭和11年に現在地に移したものである。ここには明治4年以来春の正御影供の接待記録が保管されている。講組の人々が身分相応にお米を1升〜4升宛持ち寄り、「おにぎり」の接待が主で約2俵の御飯を焚いている。戦中戦後はお米の量が少くなり、お芋が主となり、やがてお菓子の接待と変っていった。

第11番中野 西条大師堂 本尊、薬師如来 管理寺、長徳寺
 正八幡宮の真一帯の高地を原畑という。その原畑のほぼ中央に、常に清水の湧き出るところがある。これには「荒神の霊水」という伝説があり、干ばつに悩んでいたこの地方に荒神様がのこしてくれた湧水という。そこに荒神杜が建てられ、11番札所はおかれていたが、明治はじめ、神仏分離で荒神杜は正八幡宮に合祀、大師堂が独立し、のちにこの大師堂を中の西条組が当時の管理寺であった海蔵庵住職(西条の有田出)に願い出て勧請したものである。東天田福楽寺境内に貴船杜と相殿で祭る荒神社は、もと福楽寺北側にあったが、のちにここに移されたもの。今は両天田組共同で荒神祭りを豊作の神として9月18日に行っている。

第12番中条 六角堂観音堂 本尊、如意輪観音 管理寺、大昌寺
 天田より大海峠を越え、東泉寺の下を通って細道に入り、高い石段を登りつめた丘の上、大海湾のかなたに防府市まで一望できる景勝の地にある。大内25代義弘は観音を深く信仰し、紀州那智にこもり霊験をうけ、山名氏を討伐して六州(周防、長州、石見、豊前、紀伊、和泉)を所領とした。その義弘が、京都六角堂の観音一体をここに勧請したと伝えられる。本尊如意輪観音は行基菩薩の一刀三礼の作と伝え、御丈8寸の秘仏で、御開帳は21年ごとに1週間だけ大昌寺に移して行なわれる。その東方北条庵が迫には郷(幸)の森大明神があり、その御神体は欅の大木であった。今は楠の大木に代っている。その東北に「宮島様」石祠があり。北条北組が祭る。また大海保育園側の妙見社は北条南組が祭る。

第13・14番赤崎 大昌寺 本尊共に阿弥陀如来 TEL(083)984-2278
 大昌寺は大内20代弘貞の創建と伝え、応永9年(1402)の古文書に、「徳楽幸江月庵」と書かれており、その頃は大昌寺を得楽寺、六角堂を江月庵と称していたのである。大内氏亡きあと寺はしばらく荒れ果てていたが、元禄13年(1700)没の大円運徹和尚が再建開基となり、小鯖の福厳守(現在の泰雲寺)の末寺として同寺の寒向宗林和尚を開山に迎え、宝珠山長徳寺として再興した。赤崎大明神の別当坊。明治3年(1870)、寺号を放光山大昌寺と改めた曹洞宗寺院である。現在の本堂は明治25年(1892)に改築されたものであるが、その本陣の木組には古代の様式が残っている。また本尊は鎌倉時代の木像古仏である。13番札所は、六角堂北方の妙見杜にあったものを大昌寺境内に移したもので、14番札所は当初より同寺に置かれていた。ここの墓地に「小林和作画伯」家の墓がある。

◇赤崎神社
 大昌寺西隣に赤崎神社があり、牛馬の守護神、漁業・海上安全の神として知られている。赤崎神社の創建は神亀4年(727)と伝え、同社に伝わる町指定の無形文化財「十二の舞」の神事芸能は、13年目の中年霜月申の日に国家安全、五穀成就を祈願して行われてきたもので、今は赤崎部落の有志が「十二の舞保存会」を作って、この「十二の舞」を継承し奉納している。平成4年11月15日の例祭に奉納されて賑った。

第15番中野 長徳寺大師堂 本尊、薬師如来
 この札所はもと金山領臼村にあったが、大正11年(1922)長徳寺裏山に上田大賢和尚の隠居所ができ、そこに移された。この山の上に、中野部落がまつる秋葉杜と五杜の石祠がある。秋葉社は天明年代(1781〜89)長徳寺3世・一了和尚が勧請した。防火の神・迦具土神を祀る。秋葉社祭りは、中野の地下祭りで、従来青年団受持ちで、旧11月16日に祭り行事が行われ、相撲で賑わったが、今は部落が輪番で行事を担当して、子供相撲やカラオケ大会、ゲートボール大会で賑わう。祭日は11月第2日曜日。この付近に平成3年春桜の苗木30本を老人クラブで植えた。

第16番金山領 大師堂 本尊、千手観音 管理寺、長徳寺
 金山領という地名は、藩政時代に金山氏の総領地であったところからついたものである。この札所は北側山ろくの白木明神社におかれていたが、白木明神社が正八幡宮に合祀されて大師堂が残り、のちに県道ぞいの現在地に移された。白木明神社は、元祿時代(1688-1704)に木臼を御神体としてまつり、その御神体の木臼は今も正八幡宮の神庫にある。その縁起は「秋穂の史跡と伝説」(秋穂中央公民館発行)にある。この付近の東側墓地の入口南側にかつての給領主金山家三代の墓碑がある。この付近はかつて海岸の砂山の山林で1町2反7畝に、台風よけの砂止めに松が植えられていた。

第17番西青江 大師堂島鵜 本尊、薬師如来 管理寺、福楽寺
 この札所の北方に荒神杜が今もあり、以前はその荒神社に札所がおかれていた。荒神社の北方に安光家一族の墓所がある。その始祖茂兵衛の墓もある。茂兵衛は、はじめ天田に住み庄屋をつとめ、東条九郎右衛門代官のもとで外屋池や大地築立に尽力し、大地が完成してその水利の開けた新開地の西青江に移住した。下村商店街のあたりや中野の高台の水田地帯を今も「畠田」と称しているのは、その頃畑を田に転換したところからきている。茂兵衛は元禄6年(1693)11月4日に没した。札所、荒神社ともその末裔の安光一族がまつる。高校や大学に進学を希望したり、就職する子供の将来を願ってお参り客も多い。

第17番西青江 大師堂島鵜 本尊、薬師如来 管理寺、福楽寺
 この札所の北方に荒神杜が今もあり、以前はその荒神社に札所がおかれていた。荒神社の北方に安光家一族の墓所がある。その始祖茂兵衛の墓もある。茂兵衛は、はじめ天田に住み庄屋をつとめ、東条九郎右衛門代官のもとで外屋池や大地築立に尽力し、大地が完成してその水利の開けた新開地の西青江に移住した。下村商店街のあたりや中野の高台の水田地帯を今も「畠田」と称しているのは、その頃畑を田に転換したところからきている。茂兵衛は元禄6年(1693)11月4日に没した。札所、荒神社ともその末裔の安光一族がまつる。高校や大学に進学を希望したり、就職する子供の将来を願ってお参り客も多い。

第18番先青江 五社明神社跡 本尊、地蔵菩薩 管理寺、遍明院
 五社明神社は、寺社整理により嘉永5年(1852)廃社となり、その跡地の山林7畝が立銀山になった記録がある。札所は五社明神社に祀られていたが、今は大師堂に五社を併祀している。四国霊場の本尊は薬師如来である。この札所の御利益で重い難治といわれた病気が治ってお礼参りした人もいると伝える。先青江部落でまつる。

第19番先青江 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、遍明院
 ここには古くから地蔵堂があって、その地蔵堂に札所がおかれていた。祭壇に安置されている地蔵像が本尊であろう。かつてこの付近は台風の被害をうけないように地蔵尊を棟下に祭っていた。

第20番中道 大師堂 本尊、如意輪観音 管理寺、戒定院
 中道の開祖・藤田市郎兵衛は、二島幸田柿野家(のち塩田家)より分家し、貞享4年(1687)秋穂半島南端中道に移り住み、未開の山野をきり開き村造りをした。そして、元祿2年(1689)9月に吉敷の四宮明神杜を勧請し、「立石明神社」と称した。そこに観音堂ができ、札所がおかれた。四国霊場の本尊は地蔵菩薩である。なお、「中道村由来碑」はこの札所の下、大西藤田家屋敷の隣にある。

第21番花香北 大師堂 本尊 子安観音 管理寺、善城寺
 中道海岸に沿って県道を西に向い筈倉に入る手前の坂の下、道端に札所案内の古い道標がある。「右中道札所、左花香札所、嘉永七(1854)甲寅八月」と刻まれた石碑である。当時、筈倉や花香南の札所はなく、この細道を西に、花香北21番札所への道案内の道標であった。瀬戸内海水産開発KK車エビ養殖場入口の標柱に沿って小高い丘の上に札所はある。古くからここにあった観音堂に札所はおかれた。境内にある記念碑には「花の香に導く里や法の声」と刻まれており、のどかな花の咲く頃、巡礼の錫杖と御詠歌が続く光景がしのばれる。明治45年(1912)にこの句碑は建てられた。それより3年前、花香では赤痢が流行し8人が死亡、翌年には大雨で花香浜の堤防が切れ一面海になった。翌春正月20日の地下総集会で、うち続く災難排除にと大師堂敷地を拡げて部落で買い受け、21番札所を区民協力整備したことが句碑の裏面に刻まれている。四国霊場の本尊は虚空蔵菩薩である。南参道口に馬頭観音があり、霊験著しと。

◇車えびの養殖発祥地碑第21番札所西隣にある瀬戸内海水産開発KK敷地内にあり、故藤永庄作博士がこの地で車えび養殖技術を開発し、これを花香塩田跡で企業化したのが、この会社である。また、その地続きで、かつての中津江塩田跡に、山口県内海栽培漁業公社があり、現在も養殖技術の見習いのためアジア各地からの海外研修生が研修を続けている。また対岸にある長浜の山口県内海水産試験場でも養殖漁業の研究が行われている。

秋穂湾岸の開発
 今では花香・中津江方面は住宅地として多くの人々が住んでいるが、それは明治以降のことで、花香・中津江塩田が本格的操業をはじめてから大島郡や愛媛・香川県方面から移住した人が多く、石材業に塩業、漁業に回船業に従事した人たちである。それと共に守護神として花春山頂に金毘羅社、山麓に明神社、山ノ神祠、海岸に恵美須社をまつり、中津江でも荒神社、塩田に明神社を、つづいて加茂社、八坂神社に恵比須社、竹島明神社・貴船社等を祭り、それにつれて観音堂、地蔵堂等のお堂があり、それらに札所はおかれて、多くの人の信仰心を育てて来た。

第22番中津江 大師堂 本尊、弘法大師 管理寺、善城寺
 中津江山ノ手に荒神社があり、今も石祠と鳥居が残っている。荒神社祭は9月27日で盛大であった。この荒神社に札所はおかれていた。札所本尊・弘法大師像は特別大きい。その由来は大師像の背後に記されており、浦の有富家9代目竜之助の母ムメが弘法大師の信仰厚く、天保5年(1834)3月21日にこの尊像を奉納し日々礼拝し、付近の人々が引きついで祭るようになった。四国霊場の本尊は薬師如来である。毎月20日には付近のお年寄りたちが集まって大師講を開いている。この御堂が改築されたのは昭和63年である。

第23番屋戸 大師堂 本尊、薬師如来 管理寺、善城寺
 札所北方の重ね岩を御神体とする石崎社に札所はおかれていた。石崎社は一般に明神社といわれ、貴船杜とも称した。石崎社が秋穂浦祗園社に移され、その後この在地が祗園社の御旅所となり、大師堂は独立した。境内に「南無阿弥陀仏」と刻まれた碑があり、安永6年(1777)六十六部の建立。天明3年札所開設より6年前のことである。何かの堂庵の古跡であろう。この重ね岩のある地点に、かつて秋穂浦の1里塚があり、ここが山口への「お上使道」の起点であり、ここから丸山の「切貫道」を通って浦の町筋の髪解橋に出た。

第24番下村 禅光院観音堂 本尊、如意輪観音
 もと屋戸の石崎社と加茂社の中程にあった地蔵堂におかれていた24番は、遍明院峠付近の地蔵堂にあった38番と共に禅光院境内の観音堂に移された。堂内向かって右側に24番、左側に38番がまつられている。禅光院はもと菩提寺と称した。明治維新の際は、ここに八幡隊が駐屯していた。その後廃仏毀釈により一時廃寺になり善城寺に合併されたが、明治2年(1869)防府多々良の国分寺塔中にあった禅光院を移し旧寺を再興した。禅光院初代密道法印の尽力による。境内及び建物など、菩提寺そのままが現在に受継がれていて、本堂は元禄時代の作という。四国霊場の本尊は虚空蔵菩薩である。

第25番加茂 大師堂 本尊、聖徳太子 管理寺、善城寺
 加茂部落の東山ノ手に加茂社があり、ここに札所はおかれていた。加茂社は、山城国賀茂大明神の分霊を祭ったもので、開拓殖産の神である。9月11日に賀茂宮祭があり、付近の氏子が祭って来た。田植え後の泥落とし行事には、家々で重箱にごちそうをつめて持ち寄り、盛大に余興を行い、他部落からも米1升持ち寄って参加した。明治4年(1871)に祇園社に併祀され大師堂が独立した。四国霊場の本尊は延命地蔵菩薩である。

◇加茂石風呂(町指定重要文化財)はこの札所奥にあり、二室を交互に使用したものであろう。明治中期の建造である。

第26番本町 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、善城寺
 本町商店街中央にこの札所はある。古くからの町並みがあり秋穂浦の中心地。その北方、祗園町との交差点付近の江ノ川に髪解橋があった。その橋のたもとに伊勢屋があり、そこに秋穂霊場の開祖・性海法印が誕生された。倉橋姓を称したという。髪解の地名は、今は祗園町寄りに残っている。秋穂浦に髪解橋があり、山口・湯田に袖解橋があった。大内氏が山口で栄えた頃、海口となった秋穂と山口を結ぶ道を秋穂側からは「お上使道」、山口からは「秋穂街道」と呼んだ。秋穂では髪形を、湯田では服装を整える2つの水鏡の橋であった。四国霊場の本尊は薬師如来である。現在は地蔵堂は別棟に移されて「北向地蔵尊」として祭られている。この札所の東側道筋に「御高札場」があった所。

第27番下村 善城寺 本尊、十一面観音 本堂東側大師堂
 この札所はもと秋穂浦の祗国社(現在の八坂神社)におかれていたが、のちに祗園社の別当坊であった善城寺に移された。祗国社は、正徳元年(1711)秋穂浦が大火にあい124戸を焼失、飢えと寒さで多くの人が死んだときに、京都の祗園社分霊を勧請し、秋穂浦の守護神としてまつるようになった。その後、浦は再び栄えたという。祗園社をまつる前は下村大将軍にあった疫神社を移してまつっていた。疫神社は薬師如来を本地とするところから、社殿の裏に「本地薬師如来」の石碑があり、その後方に「疫神」の石祠がある。宝殿は一間四方、屋根とも総御影石で、岩屋の名石工・市宝藤左衛門が、寛政7年(1795)に制作したものである。

第28番下村 遍明院 本尊、阿弥陀如来 TEL(083)984-3358
◇秋穂浦と大内氏末路
 大内氏が山口で栄えていた頃、秋穂浦はその海口として重要な土地柄であった。永禄12年(1569)10月12日、大内氏再興を期して大内輝弘は豊後の大友宗麟の兵数千を率いてこの秋穂浦に上陸、お上使道を北上して、陶峠を越えて山口に侵入を企てた。これを迎えうつ毛利勢の井上善兵衛軍と陶峠平野口で激戦となり、両軍兵多数の死者を出した。輝弘勢はこれより山口に入り、築山に陣取って高峰城を攻めたが、高峰城将市川経好はこの時九州出陣中で夫人が指揮して容易に陥落させることができず、そのうち毛利勢は九州より引き返して反撃に転じた。やむなく輝弘勢は秋穂浦に引き返してみれば、頼みの船は一艘もなく、やむなく海岸ぞいに大道旦に出た。ここで再び毛利勢にあい、激戦の末多くの死傷者を出した。その供養碑が輝弘石、念仏石として今に残っている。輝弘はこれより富海茶臼山で自刃して果てた。

第29番祗園町 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、善光院
 古くからここに地蔵堂があり、そこに札所はおかれていた。地蔵祭は旧暦7月24日。この日祗園町では、各戸より米を持ち寄り当屋祭りをした。地蔵さまが汗をかかれると何か異変があると、沖へ出る漁師も特別用心したと古老は言う。

◇祗園町海岸小公園
 海岸埋立地に平成2年度にできた小公園(おぎおん公園)で秋穂浦の人々の憩いの場となる。その北端に地蔵堂があり、宝筐印塔のあるところは、かつて「小南号」のあった古跡である。ここに平成4年に石造彫刻物がおかれた。

第30番浜中 不動院大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、善城寺
 この札所はもと下村畠田農協傍の地蔵堂にあったが、戦後現在地に移された。「宗教法人・中山身語正宗、大海ヶ滝不動院」と相殿に札所はあり、その奥に滝つぼがある。不動様の滝といい、全身滝をあび修行する人も見受けられる。また婦人病の神「淡島さま」も祀られている。四国霊場の本尊は阿弥陀如来である。

◇浜中天神社
 古くは大御中主尊をまつる大御中主神社と称し、石崎の恵美須社を併祀していた。浜中に流行病がまん延した享和2年(1802)新川の疫神社に併祀されていた太宰府天満宮の御分霊を勧請したもの。明治42年(1909)天神社が赤崎神社に併記されてからも、遥拝所としてまつられ、社殿が台風で倒壊したので、常時保管庫の中に納められてある。恵比須杜は、現在の大海漁協にある。

第31・33番下村 善城寺観音堂・大師堂 本尊 31番 聖観世音菩薩 32番 弘法大師
 善城寺観音堂はかつては東泉寺観音堂と称し、善城寺南方にあった。善城考古文書によると、御開帳のときは遠近諸方より多人数が参拝し、本尊の聖観音菩薩像は鎌倉時代の作という。現在は善城寺山頂辺くの毘沙門堂傍に移り、現在は不動明堂が隣に新築された。次に33番大師堂はもと毘沙門堂跡にあった。弘法大師をまつる。平成3年に山門傍に移された。33番は女の厄年で婦人の参拝者が多い。毘沙門天は現在善城寺本堂に移されており、善成寺抱えの多聞寺の本尊で平安時代の作で秘佛として尊信を集めていた。

第32番長浜 大師堂 本尊、聖観世音菩薩 管理寺、善城寺
 この札所は、はじめ善城寺抱えの、旧東泉寺観音堂に安置されていた。本尊を31番と同じくするのはその故である。東泉寺は今はないが、大きな宝筐印塔が残っており、今は善城寺墓地入口に移されている。この宝筐印塔寄進者の中に、霊場勧請当初に札所案内図をつくった「舟本町古手屋又右衛門」の名が見える。恐らく東泉寺門徒であった人であろう。札所はその後長浜入口付近に移されていたが、最近、塩田跡地の一角に再移転された。長浜塩田は古くからの揚げ浜塩田の地に大浜塩田を文化年問に開立したもので、青江塩田と共に当秋穂地方の代表的塩田であり、太平洋戦争後秋穂地方各塩田の合同煎熱場がその近くにできていた。

◇美濃ケ浜の製塩土器と兜山古墳
 製塩土器は盃状で底部がとがっていて、これを砂の中にたて、下から熱して製塩したものといわれる。長浜の東海岸から美濃ヶ浜にかけては旧石器時代・縄文時代・古墳時代に亘る製塩遺跡として注目された所で、昭和35年に山口大学・広島大学・岡山大学・鳥取大学の合同学術調査が行われ、炉跡を中心に製塩遺構があったことが発見された所である。またこの近くの兜山南麓傾斜地に集落住居跡遺跡もあり、また近くに古墳数基があった。構造は組合式箱式石棺である。製塩漁労集落のあったことがわかる。美濃ヶ浜は夏は海水浴客で賑わう景勝の地である。

◇長浜の潮寿荘
 老人憩いの家として山口市が長浜の兜山南方丘の上に建設した潮湯温泉である。

第34・35・36番下村 善城寺 本尊 34番・薬師如来 35番・地蔵菩薩 36番・不動明王 TEL(083)984-4113
 明治初年までは、34番は善城寺の鎮守稲荷社に、35番は天神社に、36番は山頂付近にあった毘沙門堂にそれぞれ置かれていた。神仏分離により札所も移動し、今は善城寺本堂に35番、本堂東側大師堂に34・36番が置かれている。四国霊場の本尊は34、35番・薬師如来、36番・不動明王である。田代山善城寺は真言宗の寺院で、中世荘園時代の古文書が現存する由緒ある寺院である。後鳥羽天皇の建久3年(1192)、秋穂庄が後白河法皇の皇女宣陽門院の御領となり、庄司として播磨国の住人で備前守大江恒義の子・案主大夫長義が二島の地に来たが、数年後に死去した。長義の霊を弔うために、仁和寺菩提院門跡行遍上人と同三条大納言了遍上人が下向し当寺を宿舎にされた。そして朝日山千光院、平原山仁光寺と共に、真言宗秘密伝法灌頂の道場として取り立てられた。そしてこの寺を「田代山善城寺」と改めたと伝え、開山を行遍・了遍僧正とする。境内には古くから寺の鎮守稲荷明神があり、また末寺別房として、多聞寺毘沙門堂、東泉寺観音堂、惣持房、前勝坊、安養坊、徳蔵坊、養蔵均等7ケ房があった。そのうち現存するのは稲荷明神と東泉寺墓地だけで、毘沙門党本尊の毘沙門天(平安時代の作)が本堂に残っている。現在の建物は大正5年起工、大正14年竣工のものである。本堂前のタブの古木は、秋穂町指定の天然記念物であり、その根元の空洞の中には弘法大師が祭られている。

第37番 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、禅光院
 禅光院本堂に祀られている。

◇コミュニティ・センターと串山ハイキング・コース
 旧山口農業高校跡地に平成2年に建設されたもので、児童遊園施設と老人憩いの場を兼ねた福祉施設で、秋穂町制施行50周年記念事業の一つである。なおここより串山連峰を縦継するハイキングコース2.9Hの遊歩道ができ、善城寺山頂を経て、南端近くの行者嶽を通り、秋穂荘に至るもの。行者嶽頂上の岩には天狗の足跡と言う大きな下駄のような足跡があり、その下方に行者様の祠があって、ここに行者と蔵王権現、不動明王の石像があり、また金毘羅権現、秋葉権現、愛宕権現の文字を刻んだ石塔一基もある。かつて「行者講」が中津江、花香、屋戸方面にあった。行者嶽頂上付近には、陸地測量部の三角点の石柱があり、かつて伊能忠敬が日本国全図を作製するために、この地を訪ねてこの付近の測量基点としたところである。

第37・38・39番下村 禅光院 37番、本尊弘法大師 本尊38番、如意輪観音 39番、阿弥陀如来 TEL(083)984-2557
 第37番札所はもと菩提寺阿弥陀堂にあったもの。現在は、禅光院本堂。38番は、もと遍明院付近の地蔵堂にあった。その地はコミュニティセンター(旧山口農校秋穂分校)東側にある円城比丘の供養塔の地で、地蔵堂が無住で廃壊となり、禅光院に移された。現在は24番と共に禅光院境内の観音堂にまつられている。39番は、禅光院が菩提寺と称していた頃より変わることなく本堂にまつられており、本尊は禅光院の本尊である。境内にある大きな宝筐印塔は、元文5年(1740)菩提寺中興の祖・天教法印の建立で、この付近では古くて立派なもの。四国霊場の本尊は37番・39番は阿弥陀如来、38番は千手観音。

第40番長浜 聖鏡院 本尊、如意輪観音 TEL(083)984-4651
 この札所はもと遍明院にあったが、現在は聖鏡院本堂にまつられている。聖鏡院は臨済宗寺院で、大内・御堀の乗福寺にあった同照庵を嘉永6年(1853)長浜の現在地に引寺、明治末年堂宇を改築した。寺号の望鏡院は、明治31(1898)死去した維新の志士・山尾庸三の父、忠次郎の戒名「聖鏡院釈紹隆道徳大居士」にちなみ改められたという。山尾家は長浜塩田の庄屋をつとめた家柄で、現在も長浜塩田跡地を管理している。四国霊場の本尊は薬師如来である。

第41番下村 秋穂農協脇大師堂 本尊、聖如意輪観音 管理寺、遍明院
 この札所ははじめ下村の二尊堂にあった。二尊堂は今の秋穂小学校敷地内にあった。明治末年小学校が建ち、札所も付近の大師堂に移り、のち遍明院から現在の農協脇に移った。現在地は、かつて地蔵堂があった所でこの付近の人々がまつる。この三叉路道路近くに「道路原標」!の石柱がある。秋穂からの距離測定の基準点である。

第42番中野 南条大師堂 本尊、弘法大師 管理寺、長徳寺
 この札所はもと中野大蔵社におかれていたが、寺社整理により大蔵杜から大師堂が独立したものである。この札所にまつわる伝説によると、不心得の女人が神仏の怒りにふれ、髪が乱麻のようにもつれ、この札所でその不心得を改心し頭髪を剃って奉納したと言い、奉納された乱麻の黒髪は永くこの札所にあった。「心の迷いに黒髪を盗みて仏のこらしめに遭いぬる女の命毛堂」と秋穂霊場和讃にあるのが、この札所である。現在の札所屋敷5畝は、宇部市西区の内藤ムメが、昭和7年(1932)現在地に札所を建てるとき寄進、のち空地は子どもの遊び場として解放された。42は男の厄年である。厄除祈願に参る人が多い。

第43・44番中野 長徳寺 本尊43番、千手観音 44番、十一面観音側 TEL:(083)984-3454
 43番は文政2年の絵地図によると、大蔵社と長徳寺の中程の大師堂にまつられていた。大蔵社北側高台の「山ノ神社」古跡の地と推定される。44番は勧請当初より長徳寺(もと定林寺)に安置され、現在に至っている。長徳寺は山号を熊耳山といい、本尊を薬師如来とする曹洞宗寺院である。はじめ胎蔵寺と称していたが、その後、元和年中(1615〜24)に蘭登全芝和尚が、寺号を定休寺に改めた。明治3年、大海の大昌寺に合併され廃寺となったが、翌年長府功山寺末の壇ノ浦にあった長徳寺を引寺して再興した。この長徳寺は、今の関門人道トンネル入口の上あたりにあったといい、馬関戦争の際に砲台を据えるために解体されていた。昭和34年、東天田にあった海蔵寺を合併し現在に至っている。

第45番中野 長徳寺大師堂 本尊、不動明王
 この札所は、もと門前北側にあった疫神社におかれていたが、寺社分離で長徳寺境内に移された。疫神社には、二十日祭りと称する中野地下祭りがあった。正月20日が祭日で、この日部落全戸は2軒の当屋に分かれて酒を飲み、ワリゴ飯に汁、鰯2尾の煮付料理の会食をした。そのあと年1回の地下総集会をした。今は総集会は三月秋分の日の前夜に改められ、祭りは「五社祭り」として秋葉社春祭りに併せ行われる。

◇本郷の地名
 この正月20日の疫神社祭は旧本郷地区の各区で行われていた。本郷の地名は今はないが、秋穂村のうち、二島方に対し、秋穂半島山西全域の地名で、大正10年までは小学校名も「本郷尋常高等小学校」といった。

第46番中野 大塔寺観音堂跡 本尊、聖観世音菩薩 管理寺、禅光院
 この札所は、菩提寺(現在の禅光院)の末寺・大塔寺観音堂におかれた。本尊の聖観世音菩薩は、大塔寺本尊を継いだもので、四国霊場の本尊は薬師如来である。この札所裏山に大塔寺の鎮守・天満宮があり、月1回の子供天神講が中野後条組の子供たちが行う。この日、子供たちは揃って天満宮に参拝し、夜は当屋にあつまり一緒に会食し、一夜を楽しく遊ぶ。今も続いている。この札所は中野の山の下・緒方三家で祭り、管理に当たっている。

第47番日地 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、長徳寺
 この札所は、もと東天田海蔵寺付近の熊野権現社にあった。熊野権現社は1間四面の建物で祭日は5月28日、海蔵寺抱えの社であった。(寺社由来)海蔵寺が長徳寺と合併し、この札所も長徳寺管理となった。四国霊場の本尊は阿弥陀如来である。

◇日地の石風呂
 青江湾入口の締切堤防の東端から日地部落に入る道筋の東側渡辺氏屋敷にある。文久2年(1862)当時青江浜の浜主であった永楽屋栄蔵(松永薬局の祖)が、塩田労務者や百姓漁師等の保養のため、大島郡より石工を呼び築造した。石室の内側はドーム形、床は平坦、6畳位の広さの石風呂で、焚く時は石室の奥壁付近に薪を組み重ねて点火し、十分に暖められた石室内に海藻や莚を敷きつめ入った。昭和52年、秋穂町有形文化財に指定された。

◇青江塩田跡
 秋穂で最も古く、最も大きい塩田で26町余。藩直営で明和3年開発されたもの。跡地は北浜が工場と住宅地になっており、南浜が整備中である。

第48番東天田 海蔵寺跡 本尊、如意輪観音 管理寺、長徳寺
 この札所は、東天田海蔵寺跡地にある。海蔵寺は、昭和34年8月に長徳寺に合併、翌年4月伽藍を解体し、現在は宝筐印塔、石地蔵、墓地が旧境内に残っている。海蔵寺の本尊は釈迦如来、脇侍は観音、勢至であった。寺伝に言う。「これら3体の仏像は永祗年中(1558〜70)岩屋の浜へ海中よりあがり、夜々光明を放ち給うを浦へ取り帰りてその家に安置しけるに、霊験著しく、よって一宇建立。本尊海中に潜蔵ありし縁によりて海蔵と称す。」(風土注進案)四国霊場の本尊は十一面観音である。この墓地に秋穂で最も古い医家、村上興勝(玄也・医師)の墓碑がある。その祖は小早川候に従って朝鮮の役に功をたてたと墓碑に刻まれている。

第49番黒潟南 金毘羅社跡 本尊、阿弥陀如来 管理寺、長徳寺
 この札所は、文政2年(1819)の絵図によると、海蔵寺付近の地蔵堂におかれていたが、現在は黒潟南金毘羅社跡にある。この地にあった金毘羅社は、横浜神社境内に移され、今も社殿の西側に石碑がある。金毘羅社は海上安全の神としてまつられ、黒潟南北両区に金毘羅講がある。祭日は3月10日。四国霊場の本尊は釈迦如来である。海蔵寺抱えの地蔵堂であったので、今はこれをうけついで長徳寺の管理になっている。

第50番中道 筈倉大師堂 本尊、観世音菩薩 管理寺、福楽寺
 この札所は東天田延命寺観音堂にあった。延命寺には、弘治4年(1558)屋敷地寄進状の古文書があったことが、「風土注進案」にある。現在は延命寺の地名が残っている。山口プライムデリカの工場付近である。筈倉に移ってからも、延命寺観音堂の本尊を、札所本尊としてまつる。四国霊場の本尊は薬師如来である。

第51番中野 公民館脇阿弥陀堂跡 本尊、薬師如来 管理寺、長徳寺
 ここは阿弥陀堂跡で、境内には宝筐印塔や青面金剛像を刻んだ庚申碑、諸国回国の行者・三河国小林某が「一国一石塔」を建て法華経を奉納した石塔もある。宝筐印塔には「本願主加州政之助・きく、行者出羽禅、丹後定五郎、阿州上山伝兵衛、宿当村勧右衛門、回国中供養、寛政十二庚申三月吉日」とある。各地の行者の回国者がこの地を同宿したことがわかる。古老の話ではここにタブの大木があり、恵美須社、田宮社もまつられていたという。中野部落の中心地で、現在の建物は昭和53年6月に改築された。中野東条組が祭る。

第52番黒潟北 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、栄泰寺
 ここはもと地蔵堂があった。地蔵堂は宝暦8年(1758)に建立されたもの。この地蔵堂にまつわる片眼地蔵の伝説が今に残っている。札所屋敷地に、宝筐印塔や石柱、石碑などがあるのはその伝説の人々と関係があり、開山を宝暦8年とする石碑に「当庵開山百回忌・安政四丁巳(1857)七月十三日立」と記された石柱がある。また、「春鶯道意居信士」と記された石塔は、片眼地蔵の伝説に登場する庵主・諦観の供養碑であろう。この付近が吉敷毛利領の給庄屋屋敷のあったところである。四国霊場の本尊は十一面観音である。(「秋穂の史跡と伝説」参照)

第53番黒潟南 大師堂 本尊、観世音菩薩 管理寺、福楽寺
 この札所慈光庵跡に隣接する福楽寺抱え観音堂跡にあった。観音堂は福楽寺3世慈光法印が山口の清水寺より勧請、それより地下の人々がまつってきたもので、この観音堂に札所はおかれた。本尊を観世音菩薩とするのはその故による。福楽寺文書によると、安永8年(1779)屋敷地51坪を菩提寺円城比丘と福楽寺神竜法印の世話で、地主村岡清右衛門が寄進している。慈光庵は、小鯖禅昌寺の大洞龍吟和尚(文政2年没)を開山とする。観音堂より後にできた曹洞宗の庵である。文久3年(1863)と慶応3年(1867)の2回にわたり、住僧東明杲天和尚が多くの人々に協力を呼びかけ、国運打開、天下泰平のため大般若経600巻を購入し、敵軍侵入阻止を祈願した。この付近に、そのころ奇兵隊により台場が築かれた。大般若経600巻は町の歴史民俗資料館にある。札所は平成4年9月台風19号で建物が倒れて、新築の公民館西側に平成4年暮に移された。

第54番二島 真照院大師堂 本尊、不動明王 朝日山真照院境内
 この札所はもと黒潟・横浜神社におかれていたが、昭和10年代の堂庵整理で朝日山真照院境内に移された。朝日山中腹のここからは秋穂湾はもとより周防灘、遥かに九州の山々が展望できる景勝の地である。

◇横浜神社
 この社は安芸の厳島より仁寿3年(853)に、53番札所の西方六本松に勧請。海上安全の守護神としてまつってきたが、黒潟開作ができ、吉敷毛利領となって、元禄11年(1698)黒潟開作の鎮守神として現在地に遷座した。祭神は市杵島姫命、多紀理姫命、多紀律姫命の三女神である。黒方南北両区でまつる。祭日は9月18日で、カラオケ大会やゲートボール大会が行われる。

第55番惣在所 大師堂 本尊、大通智勝仏 管理寺、真照院
 この札所はもと惣在所三神社におかれていた。三神社はこの札所の西南方に社殿と鳥居がある。この社は寺社由来書によると、惣在所開作の鎮守として正徳2年(1712)に勧請、祭日は9月5日であった。また、真善坊由来書には、惣在所に恵比須社があり、この社に惣在所開作の鎮守として、正徳2年相殿に竜神、住吉両神を勧請、以後三神宮と号したとある。この札所の本尊は四国と同じ大通智勝仏で、太古法華経を説いた仏である。

◇瓢箪浜塩田
 惣在所沖には瓢箪浜という規模の小さな塩田があった。百姓小浜といい、富裕な百姓が副業経営をしていた。しかし小規模な浜は早く整理対象となり、昭和5年(1930)に整理された。

◇黒潟開作
 秋穂の穀倉地帯黒潟開作約200町歩は二期に亘って築留されたもので、寛文5年(1665)に70町歩、元禄3年(山口県文化史年表では元禄元年)に鍬初め、4年に潮留めされてできた約130町歩である。このうち約110町歩は吉敷毛利領となった。灌概用水は外屋池、大歳池、潮田池(夫婦池)に長池の余り水をもらったが、移住者は飲料水に困った。中野や天田まで飲み水をもらいに行く家も多かった。山がないので、惣在所南共有林の岩屋揺木山を借りて共同で採用していた。

◇周防大橋
 棋野川の東西湾口を結ぶ周防大橋は平成4年3月に開通して・宇部、防府の経済圏を結ぶ交通路として地域活性化の期待にそうもので、総延長1,346m(内橋梁1,040m)関門大橋につぐもので、幅員10.5m。端の東側寺崎には道路公園が県営で作られ、西側には藤尾山都市公園が山口市営で建設される。

第56番惣在所 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、真照院
 文政2年(1819)の絵地図によると、この札所は地蔵堂に併祀されていた。大師堂軒下にある「宝暦十一年(1716)辛巳四月吉日」と刻まれた大きな石地蔵が地蔵堂本尊であろう。惣在所と黒潟の境を流れる長沢川は、大雨にしばしば決壊した。そのためこの両部落で地蔵尊に鎮座してもらって、堤防を守護し、災害排除の目的を果したいためであろう。この札所近くの道路ぞいに「庚申塚碑」とこの由来板があり、かつて惣在所組で祭って来たものであろう。

第57番惣在所 杉の森大師堂 本尊、愛染明王 管理寺、真照院
 この札所は勧請当時この地にあった愛染堂に併祀されていた。愛染堂本尊を継ぎ愛染明王を本尊とする。四国霊場の本尊は、阿弥陀如来である。寛保元年(1741)の真善坊由来書によると、愛染堂は天正5年(1577)頃にあった妙蓮寺という尼寺の古跡で、古くから真言宗寺院であったと言う。

◇惣在所の地名
 惣在所の地名は天正頃の古文書には「正税所」とあり、その頃徴税役所のあったところから変じて惣在所の地名となったものであろう。

第58番二島 真照院 本尊、千手観世音菩薩 TEL(083)987-2025
 当寺は明治3年祢宜にあった千光院真善坊と同所五智輪山遍照寺を合併して、千光院観音堂のあった現在地に建立した。寺号の「真照院」は、真善坊の「真」と遍照寺の「照」と千光院の「院」の各一字宛をとり名付けられた。千光院観音堂の本尊を受けつぎ、千手観世音菩薩を本尊とする。「寺社由来」によると、ここにはもと千光院止観寺があり、往古より真言宗秘密伝法灌頂の道場であった。天正14年(1586)火災にあい堂宇を焼失。そのとき祢宜の真善坊に合併し、寺号を「朝日山千光院真善坊」とした。その後貞享の頃(1684〜87)千光院の旧跡に毎夜霊燈の奇瑞があらわれ、里人は奇異に思い一宇の観音堂を建立した。これを千光陪観音堂と称した。この千光院観音堂に札所がおかれたものである。朝日山真照院は昭和17年(1942)10月25日、火災にあい庫裡を残して焼失したが、本尊だけは救出された。現在の鉄筋コンクリートの建物35坪ができたのは、昭和38年(1963)10月である。この寺山に33観音の石像が配置されている。

第59番二島 小島大師堂 本尊、薬師如来 管理寺、真照院
 この札所はもと朝日山山頂付近の妙見社におかれていたが、明治44年(1911)3月に移転したもので、その由来をつたえる石碑が札所境内にある。昭和11年9月に建立されたこの由来碑によると、嘉川の住人後山貞芳という篤志家が、この地を実地検分して山林2反7畝と霊場堂宇一切の建築費を寄進し遷座が実現したという。四国霊場の本尊は薬師如来である。

◇正八幡宮古宮
 二島からこの札所への往復路の途上にある。正八幡宮が宇佐より勧請されはじめて鎮座された旧跡で、その背後の山を八幡山または宮山という。正八幡宮が文亀元年(1501)大内義興によって現在地宮ノ旦に移されてから永い間、秋の御神幸祭にはこの古宮を御旅所とした。しかし、交通事情が複雑になり卸旅所は祢宜須賀神社跡に変更されたが、例年祭の大祭にはこの古宮が御旅所となる。この古宮は二島部落が清掃管理を受け持っている。

第60番南 大師堂 本尊、明神堂 管理寺、真照院
 この大師堂西隣に鳥居と石祠がある。その鳥居には「安永五(1776)丙申九月」と刻まれた文字があった。前開作の守護神としてまつられてきた明神社で、文政2年(1819)の絵地図によると、札所はここに置かれている。神仏分離により大師堂が独立し、隣家の杉家が祭る。杉氏によると、この祭壇と石祠に祭るのが明神さまといい、神像(立像)の脚下に動物、竜神であろうか。杉氏はもと瑠璃光寺抱えの武士で、祢宜で医業を開いていたが、のちにここに移って来たという。

第61番南 前ノ浜大師堂 本尊、弘法大師 管理寺、真照院
 この札所はもと貴船社におかれていた。貴船社は南部落全体でまつってきた杜で、ここにおかれたこの札所も、貴船社と共に昔からの旧家が輪番でまつってきた。

◇南前ノ浜塩田
 明治2年(1869)に東天田の原田助左衛門が築立した。面積は約12町歩、この浜の所有者には秋穂の者が多かった。隣の寺崎干拓は太平洋戦争後の食糧事情の悪かった時代に、食糧増産のため干拓された。その西方寺崎の地に周防大橋が架かり、防府から宇部方面に通じる防府・佐山線の県道も拡張整備され、平成4年3月に開通した。

第62番南 公民館脇大師堂 本尊、十一面観音 管理寺、真照寺
 この札所の西北山麓に若宮神社がある。もとはここに札所がおかれていたが、明治40年に神仏分離で札所が独立し、その札所は現在地公民館脇に移った。南部落の青年団が祭ってきたが、今は子供会育成会が祭る。若宮社ははじめ長浜の美濃浜に鎮座し、大同元年(806)に現在地に移ったと由来書にある。祭神は仁徳天皇、祭日は旧9月18日。

◇焼火権現社
 若宮社の山の頂上にある。隠岐の焼火社の分霊を勧請したと伝え、祭神は「がぐつちの神」。もとは正月5日と9月18日の両日か祭日であったが、近年は6月10日と9月10日の両日となった。火除けの神として特に消防関係の参拝者が多い。

第63番南 薬師堂跡 本尊、毘沙門天 管理寺、真照院
 文政2年(1819)の絵地図によると、この札所は薬師堂におかれている。その薬師堂を偲ばせる数々の石造物が、いまも大師堂境内に残っている。四国霊場の本尊は毘沙門天である。南部落には60番から63番まで4力所の札所がある。しかし、それぞれの祭り方は異なり、60番は杉家で祭り、61番は南部落の旧家がまつり、62番は青年団(今は子供会)、63番は全部落でまつってきた。しかし63番は近ごろ篤志の信者にその管理をゆだねている。

第64番二島 阿弥陀寺 本尊、阿弥陀如来 管理寺、森田明師 TEL(083)987-2170
 この札所は朝日山北麓の人里離れた森の中にある。樫木山阿弥陀寺と称し、本堂、拝殿のほか地蔵堂もあり、難病治癒の霊験をうけた人々の奉納物が数々ある。かつて朝日山真善坊末の阿弥陀堂であった。境内には新たにミニ縁組大師、地蔵堂、三宝荒神もまつる。四国八十八ヶ所お砂踏み霊場もあり、多くの信者がある。

第65番二島 北田大師堂 本尊、十一面観音 管理寺、真照院
 この札所は旧龍王社跡地という。龍正社については真善坊由来書に、弘治4年(1558)6月25日真善坊(当時は新書坊)宛の龍王免田証文のことがあり、正八幡宮古文書にも天正18年(1590)龍王免田300歩、米2斗5升云々とある。しかし、今はそれとわかる遺物、遺跡は見当らないが、もとはこの地付近まで海岸線で、そこに海の守護神の龍神を祀ったものであろう。このお大師様は「目のお大師さま」と言い、眼病治癒の御利益をうけた話が伝わっている。

第66番二島 大師堂 本尊、阿弥陀如来 管理寺、真照院
 朝日山真善坊抱えの阿弥陀堂が二島に二宇あり、その一宇を極楽寺と称したと寛保元年(1741)の由来書にある。この札所が極楽寺の古跡で、本尊を阿弥陀如来とするのはその由緒による。四国霊場の本尊は千手観音である。

◇真善坊
 明治3年廃仏棄釈により遍照寺ならびに千光院観音堂と合併し真照院となったことはすでに述べた。(58番真照院の項参照)真照坊は祢宜にあって、宇多天皇寛平8年(896)の草創、開山は観覧僧正という近江国石山寺の座主であった。その後無住になったことがあり、永禄年間より天正年間(1558〜92)に僧快憲が中興開山となった。千光院と合併して「朝日山千光院新善坊」と称し、天正の末頃従来の新書坊の「新」を「真」に改め千光院真善坊とした。天正18年正八幡宮仕僧神官に対する打渡状によると、まだ新善坊となっている。本尊は如意輪観音。(「風土注進案」、「寺社由来」)

第67番二島 薬師堂跡 本尊、愛染明王 管理寺、栄泰寺
 ここには古くから萬徳院抱えの薬師堂があり、観喜院薬師と申し伝える。(「寺社由来書」)その薬師堂に札所はおかれた。境内にはいまも当時を偲ばせる宝筐印塔その他の石造物がある。この札所では、毎年秋の彼岸に部落主催の護摩火祭り行事がある。古来の仏教儀式を伝える行事で、信者たちはこのゴマの灰を受けてかえり無病息災の御寺りとした。本尊はかつては薬師如来、今は愛染明王となったのは二島ん領主佐々木家の寄進した仏像があるためであろう。神経痛で杖にすがりながらお参りして治癒したとの話がある。

◇地名「二島」
 二島という地名は、「風土注進案」に「当村の儀は海中に雌雄の小島あり。神功皇后、干満二珠を表せし奇瑞の霊地によって往古豊後ノ国宇佐八幡をこの地に勧請し、夫より二島と唱え来り候」とあり、雌雄の小島から起こった地名である。元禄4年(1691)の干拓により、雄鳥(干珠島)が地続きとなり、その名「雄鳥」が地名「小島」として残り、雌鳥(満珠島)はまだ海中にある

第68番祢宜 須賀大師堂 本尊、延命地蔵 管理寺、真照院
 この札所が開かれたころは地蔵堂であった。そのころの古い石造物等は見当たらない。本尊の延命地蔵像は古仏である。四国霊場の本尊は阿弥陀如来。

◇祢宜の須賀神社68番より五八幡宮にむかう県道右手にある。「郷の宮」ともいい、聖武天皇の天平7年(735)出雲国より勧請したと伝え、祭神は素蓋鳴尊。祭日は9月5日であった。今は正八幡宮御神幸祭の御旅所となっている。ここには秋葉社、三神社、稲荷社、杵崎社、その他の石祠と鳥居を移しており、祢宜部落で管理している。

◇正八幡宮御神幸祭
 祭りの儀式は前夜祭からはじまる。御神幸祭当日は正午より宮廻りの儀式からはじまる。社殿で式がすむと神輿の外側に幕を張り、左右の外戸を閉じ、別当が神遷式を行って神幸の行列にうつった。この時神輿に吊した掛佛が仏具として今遍明院に残っている。行例は猿田彦、獅子、狛犬、鉾、御太刀、御幣をもち、そのあと真言宗寺院の僧侶約30人が両側に並び、その次に別当、神主、香爐御炊、これにつづいて神輿三基、そのあと社家左右につづき、そのあと練物(通り物)がつづいた。(風土注進案」)今は神官と氏子代表で簡素な儀式になった。祭日は陰暦8月15日に近い日曜日に行われ、当日はカラオケやゲートボール大会も催される。

第69番二島 真照院奥ノ院 本尊、観世音菩薩
 この札所はもと祢宜の真善坊におかれていたが、昭和7年に真照院の裏山山頂付近に奥ノ院ができ、そこに移った。見晴らしのよい所。三十三観音を巡りながらの登山をして参詣する。

◇朝日山護国神社(招魂社)
 真照院奥ノ院の背後の景勝地にある。県下の招魂場は24ヶ所。そのなかでも最もはやく創建された招魂場の1つで、国事に斃れた志士達の英霊を弔うために、秋穂に駐屯していた八幡隊が慶応元年(1865)4月4日に地開きを始め、4月8日に成就した。招魂場の棟上式は同年6月25日であった。現在は二島の戦死者を合祀して参道付近にツツジ苗を植えて美化整備を進めている。
  招魂杜の祭神は前記八幡隊の縁故者で元治元年(1864)7月19日京都禁門の変で散った同士久坂玄瑞、入江九一、寺島忠三郎等の英霊を祭った。その後八幡隊は集義隊と合併して鋭武隊となり、維新戦に参加、諸所の戦いで戦死した縁故者を合祀した。ここにある招魂場由来碑は八幡隊の総督であった堀真五郎の撰文である。朝日山護国神社と改称したのは昭和14年8月21日である。その後支那事変から太平洋戦争にかけて戦死した二島地区出身の英霊を合祀した。この付近の環境整備は二島地区老人クラブの人々によって行われる。

第70番祢宜 阿弥陀堂跡 本尊、阿弥陀如来 管理寺、 栄泰寺
 この札所は阿弥陀堂跡で、本尊を阿弥陀如来とするのはその古跡を継いだもので、四国霊場では馬頭観音が本尊である。境内には槙木の古木があり、5基の五輪塔や宝永年間(1704〜11)頃の年号が刻まれた数基の石塔がある。また寛政3年8月吉日建立の宝筐印塔はこの札所を祭る野嶋家2軒の祖の戒名と俗名が刻まれている。野嶋家2軒が祭り管理している。

◇祢宜の地名
 正八幡宮には江戸時代に十数軒の社家があり、祢宜職の神官が住んでいたところから起こった地名という。

第71番祢宜 公民館脇大師堂 本尊、観世音菩薩 管理寺、真照院
 この札所は祢宜公民館脇にある。古くからあった薬師堂跡で、境内には当時を偲ばせる五輪塔の一部石造物が残っている。本尊の標示板には十一面観音とあり、真照院記録には観自在菩薩とある。祭壇には4体の仏像がある。いづれも傷みが進んでいるので明らかでないが、観世音菩薩であろう。この薬師堂に文化5年に献造した宝筐印塔に「当庵中興大道全恵上座」とあり、当時の住職に地元の多くの人々が協力して、祖先の霊を慰めるために、この塔は建てられたものであろう。四国霊場では千手観音。

第72番惣在所 大師堂 本尊、大日如来 管理寺、真照院
 この札所はもと祢宜の遍照寺にあった。遍照寺は今の二島支所付近にあって本尊は五智如来。江戸時代寛永8年(1631)にこの寺を継いだ空遍法印を中興開山とする。幕末、奇兵隊や八幡隊が駐屯宿舎としていた頃の建物は、本堂桁行6間、梁行5問。庫裡もかなり大きなものであった。遍照寺は朝日山真照院に合併した。この札所もそれに伴って、惣在所に移された。四国霊場と同じ大日如来を本尊としてまつる。この札所は隣接する徳永幸市氏が祭り管理している。

第73番祢宜 大師堂 本尊、釈迦如来 管理寺、真照院
 もと遍照寺近くの稲荷社におかれていた。ここより大里峠を越して大里に入る道筋が秋穂・小郡線の旧道で、バスもはじめはこの道筋を通っていた。稲荷社が正八幡宮に併祀され大師堂が独立。今は朝日山東麓の県道沿いに移され、祢宜7班がまつる。この付近は県道拡張で整備が進んで今はなくなったが、かつて大きな椿の木があり、その下に石祠があって、秋穂氏縁者の霊を祀るとか。庚申祠等とも言われていたが、今は森も林も石祠もなくなっている。

第74番大里 栄泰寺 本尊、薬師如来 Tel(083)987-2118
 当寺は明治3年(1870)にこの地にあった泉蔵坊と萬徳院ならびに戒定院の3寺が合併し法輪山栄泰寺となった。しかし戒定院は明治7年(1874)分離独立した。栄泰寺は泉蔵坊の旧跡をそのまま継承したが、昭和25年12月火災にあい、位牌堂を残し本堂、庫裡を全焼した。現在の建物は昭和36年(1961)3月に再建され、本堂25坪、庫裡27坪。位牌堂42坪は、昭和12年(1937)の築造である。泉蔵坊は仁明天皇の承和5年(838)、小乗栖常暁律師が宣旨により入唐し、翌年2月に帰朝後当寺を創建したと伝えられる。(「風土注進案」)この寺に74番札所がおかれたことが文政2年(1819)の絵地図でわかる。幕末に奇兵隊が、そのあと八幡隊が駐屯し、この寺が本陣となった。境内には大里村の俳人小野麦作(無着庵5世)の句碑がある。「酒よりも茶によき夜なりほととぎす。」この句碑は、麦村の弟子の栄泰寺住職村岡梅琴と開地旭東が明治36年(1903)に建立した。

◇奇兵隊、八幡隊の駐屯
 江戸時代末期の文久3年(1863)9月、馬関に駐屯していた奇兵隊が山口への海口秋穂防備のため、泉蔵坊を本陣に萬徳院、遍照寺、真善坊の4寺に分宿した。そして外敵に備えるために台場を作ったり、銃砲警固を行った。翌文久4年、奇兵隊は都落ちして来た公卿7卿の警固のため三田尻に移駐した。その後秋穂側の菩提寺、週明院に駐屯していた八幡隊が移って来て、台場の築立や打ち方の訓練を行った。第2次長州征伐に先立つ慶応2年(1866)、幕府軍攻撃のため第2奇兵隊が秘かに行動を起こすことを知った一部の八幡隊員が、この計画に加わるため脱隊して海路東上を企てた。この計画は未遂に終わり、黒潟海岸まで脱走していた者のうち、首謀者1名は腹痛のために病床にあって、馘首をまぬがれ6人のうち5名は馘首された。それは泉蔵坊の南参道雄ノ木北側であった。(二島史)

◇大里の小野家
 総本家が小野延衛家で、利兵衛の後が善左衛門で、その後庄屋役をついだのが、分家の小野清氏の祖で、善治、恒太郎などがあり、のちに初代秋穂村長小野治介も同家出で秋穂村行政に尽力をした家柄で、大海の医師小野充氏もその一族である。墓は栄泰寺門前にある。

第75番大里 萬徳院跡 本尊、稚児大師誕生仏 管理寺、栄泰寺
 この札所は萬徳院跡である。本尊を稚児大師誕生仏とするのは、恐らく四国霊場75番善通寺が弘法大師の生誕地であることによるのであろう。四国霊場の本尊は薬師如来である。鶴林山萬徳院は建立年暦、開山ともに不分明、本尊は釈迦如来であったと風土注進案にある。またこの寺に「万寿寺牛王宝印」と書かれた板木があり、その裏には「秋穂庄二島大里村観音寄進申也 弘治2年(1556)丙辰12月13日 作者宗順寄進也願主宗賢 三世成菩薩也」と書かれていたというが、焼失して今はない。萬徳院はもと萬寿寺と称し宮ノ旦にあった。現在の88番札所がその古跡といわれる。

◇天然記念物・アラカシの大樹
 この樫は75番札所前方にある。根回り5m、樹高14m、地上3.5m所から幹がわかれ、枝張り東西20m、南北16mの大樹である。昭和51年11月、山口市により天然記念物に指定された。(山口市史より)

第76番大里 大師堂 本尊、薬師如来 管理寺、栄泰寺
 栄泰寺門前にあるこの札所は、地蔵堂であったことが文政2年の案内因でわかる。現在の本尊薬師如来は栄泰寺本尊と同じである。四国霊場本尊も同じ。大里には部落がまつる厳島社と今宮社の2ケ所の神社がある。厳島社は元文3年(1738)安芸国宮島の厳島神社を勧請し、祭神は市杵島姫命で大里の鎮守である。今宮社は通称「杜様」といわれ、この札所西方の道路傍の森の中にある。大内時代よりまつられてきた地主神と伝えられている。「名田島新開作」は安永3年に二島の庄屋小野家が統領をつとめて築立されたので、明治の改正までは二島に属していた。

第77番上ケ田 大師堂 本尊、毘沙門天 管理寺、戒定院
 この札所は戒定院抱えの萬福寺の古跡で毘沙門堂跡である。よって本尊を毘沙門天とする。札所前にあるケヤキの古木が往時を偲ばせる。四国霊場の本尊は薬師如来である。

◇上ヶ田三神社
 元禄6年(1693)上ケ田開作が築立、その守護神として領主益田越中が建立したもので、のちに火災にあって天保13年に再建したのが現在の建物である。当別坊は戒定院であった。

第78番上ヶ田 戒定院 本尊、聖如意輪観世音菩薩 Tel(083)987-2722
 当寺はもと平原山仁光寺と称し、仁光寺にあった。仁和寺菩提院の門跡三条大納言了遍を中興開山とする。仁光寺は、幾星霜の問に一時衰微して無住となったこともあったが、のちに上ヶ田に移り「平原山海定院」と称するようになり、仁光寺は地名として残った。天正18年(1590)正八幡宮打渡状のなかに海定院の古文書があり、この時代には既に寺名を改めていたことがわかる。その後、天正末頃(1590〜92)「海」を「戒」に改めて戒定院とした。元禄6年(1693)益田家が上ヶ田開作を築立したときには、その鎮守上ヶ田明神社の別当坊を勤め、山林5町余、田地1町余の寄進を受けた。享保3年(1718)現在地に移り、天保12年(1814)火災にあい伽監を焼失したが翌年再建。明治3年(1870)社寺整理のときに、一時栄泰寺に合併したが、同7年(1874)分離独立し現在に至っている。現在の本堂は昭和50年3月の建立で庫裡とも82坪である。ここの札所は近くの地蔵堂の78番が移されたものである。本尊は戒定院と同じ聖如意輪観音である。四国霊場の本尊は阿弥陀如来である。秋穂には幸田出の藤田一族をはじめ戒定院檀家がかなりある。

◇富永右隣の塾
 安政の頃吉田松陰の松下村塾の教師をつとめた富永右隣が、この戒定院で塾を開いて付近の子弟の教育に当だったことがある。右隣の塾はここから名田島大道寺に移った。

第79番新開作 大師堂 本尊、地蔵菩薩 管理寺、戒定院
 この札所はもと戒定院にあったが、現在地に移されたものである。それまでは新開作がしばしば水害にあうので、地蔵尊を祭る大師堂を開作守護として今の堤防の地に迎えた。それより後はこの付近に水害はなくなったという。本尊は地蔵菩薩である。現在の不燃建物に改めたのは平成初期である。四国霊場の本尊は十一面観音である。

◇名田島は元禄4年に東西両開作が築立され、新開作は安永3年築立、その先の昭和開作は昭和3年に巣立されたものである。

第80番名田島 向山大師堂(華光寺) 本尊、愛染明王 管理寺、戒定院
 文政2年(1819)の案内図によると、この札所は上ヶ田地蔵堂におかれていた。今は向山三神社上の小高い丘にあり、昭和54年に大師堂と共に華厳宗華光寺が建立された。今は愛染明王を本尊とする。四国霊場の本尊は十一面観音である。お堂前にあった観音像の石台の上には、新たに修行大師像が建立されている。

◇行者と石槌山
 この札所より東方の山を石槌山という。登山道もでき、その道筋に仏像が祭られている。華光寺信者の方々が毎月1日には頂上まで登って祭り行事をするという。かつてこの付近に行者が住みつき修行所にしたという。

第81番花香南 大師堂 本尊、薬師如来 管理寺、福楽寺
 この札所はもと向山三神社におかれていたが、安政2年(1855)8月28日火災により焼失、その後宮座頭人であった当地の医家佐分利家が預り、安政5年(1858)8月再建した。その縁でこの札所は佐分利家が祭って来たが、のち花香南に移り、今は花香南部落が祭っている。この札所には首なし地蔵尊があり、子供の首から上の病に霊験があると言い伝えている。向山三神社は名田島元祿開作(現在の東開作)築立の折、当時の小郡宰制の代官小沢七右衛門の要請で、福楽寺住職快音和尚が3年間正八幡宮に参籠して汐留めの祈祷を行ったり、開作の要所要所に納経し無事完工を祈った。そして、元祿4年(1691)9月、開作の鎮守三神社を勧請しその導師をつとめた。それより福楽寺が宮司坊となった。こうした因縁で、現在もこの札所の管理寺は福楽寺である。

◇首なし地蔵縁起
 この札所に併祠する地蔵尊像の由来。昔幼児をつれた母親が花香山に薪取りに行ったところ、子供の姿が見えなくなり、ついに村人の助けをかりて探してもらった。ところが幼児は無心に何かを抱いてじっとしている。それは何と首なし地蔵尊であった。その地蔵尊をこの札所にまつってより、子供の百日セキやいろいろの病気に御利益があるので多くの人々がお参りするようになったという。お大師さまと地蔵様のお蔭という。

第82番名田島 大師堂 本尊、聖如意輪観音
 現在は岩屋山地蔵院境内
 霊光院の正面柱に「∴毛利隆元公菩提所」とあり、霊光院の由来をいまに伝えている。大悲山霊光院は永禄年間(1558〜70)に毛利隆元公菩提所として芸州に創建された。その後、宝永年間(1704〜11)に山口の常栄寺境内に遷座され、更に嘉永6年(1853)11月、この地に遷座したが明治3年(1870)廃寺となった。これを昭和23年(1948)住僧澤根秀運が復興し真言宗寺院とした(「山口市史」)。四国霊場の本尊は千手観音。この札所堂内にある五重塔は、文政5年(1822)防府天満宮境内に建立する筈であった五重塔の用材で造られた20分の1の模型で、作者が霊光院に寄進した。天満宮の五重塔は天保の百姓一揆で実現しなかったが、その壮麗さがしのばれる。この五重塔は、山口市指定の重要文化財である。この札所は平成3年5月岩屋山地蔵院屋敷地に移された。

第83番名田島 地蔵院 本尊、延命地蔵菩薩 Tel(083)987-3044
 当寺は巨巌畳々たる岩屋山の山腹にあり、樹木の茂る境内には湧水もあり、池には鯉が泳ぎ自然公園の環境に恵まれている。寺伝によると、この岩屋の地に毎夜不思議な霊光があらわれるので、相謀って宝暦6年(1756)仏堂を建て、臨済宗で山口の常栄寺末の長安寺を勧請した。ここに83番札所はおかれたが、いつの間にか無住となり、文政2年(1819)の絵地図がかかれた頃には札所は祢宜遍照寺付近に移されている。その後、明治初年(1868)住僧桂真梁が、防府多々良の国分寺塔中の地蔵院を引寺して再建した。寺伝によると、地蔵院は天平19年(747)行基が建立、応永24年(1417)火災により一切を消失したが、毛利重就が再興した。(「山口県寺院沿革史」)四国霊場の本尊は聖観世音菩薩である。

第84番仁光寺 大師堂 本尊、聖如意輪観音 管理寺、戒定院
 寛保元年(1741)の寺社由来書に、仁光寺に心経寺と号する地蔵堂があり、地蔵菩薩は誰の作か不詳とある。ここに札所がおかれたことが文政2年(1819)の絵地図でわかる。大師堂軒下には地蔵像があり、台座に「観兜覚阿法師 天保11年11月12日 芸州可部町出生」とある。この法師が当時の地蔵堂主でえらいお坊さんで農民から尊敬され、多くの弟子を育てた人であったと。札所祭壇に現在は弘法大師、聖如意論観音菩薩、薬師如来等の仏像がある。四国霊場の本尊は、十一面千手観音である。

◇熊野権現社
 北方山中にあり、付近の山林が社有地で、秋の彼岸に仁光寺祭りとして今も祭りつがれ、社殿は本殿、拝殿共に昭和60年頃に新築されている。

第85番仁光寺 大師堂 本尊、千手観音 管理寺、戒定院
 文政2年(1819)の絵地図によると、この札所は毘沙門堂におかれていた。いまも境内には当時の石造物が残っている。毘沙門堂では、正月5日に厄除けのお祈祷があった(「寺社由来」)。この札所本尊はかつては毘沙門党本尊の多聞天であったが、現在は千手観音である。境内の宝筐印塔に「享和3(1803)癸亥11月吉日、願主当村中」とある。仁光寺部落で共同して祖先の供養碑を建てたものであろう。

◇地名「仁光寺」
 かつてこの部落に平原山仁光寺があったことは、成定院由緒で知ることができる。この寺名「仁光寺」が地名となった。はじめ「仁劫寺」と書いたが、のちに「仁光寺」に改められた。

第86番仁光寺 大師堂 本尊、釈迦如来 管理寺、戒定院
 この札所は山王杜におかれていた。山王社は山王権現をまつる。比叡山延暦寺の鎮守神で、天台宗の開祖最澄が開いた地主神である。日吉神社とも言う。山王とは霊山を守護する神霊で、安産、子育て、縁組み、その他豊作の神としての霊験があるとして信仰されてきた。山王社は明治40年(1907)に寺社分離で、大師堂が独立した。本尊は釈迦如来である。

◇山王社はこの大師堂より約150m東南方に跡地があり、ここに山王社、大蔵社、疫神社、稲荷大明神の石祀と「高倉荒神」の石柱等がある。かつてここの桜の木の下で仁光寺の泥落し祭りをしたことがある。

第87番幸田 大師堂 本尊、千体地蔵 管理寺、栄泰寺
 この札所は県道から150m程入った竹林に囲まれた地にある。泉蔵坊(現在の栄泰寺)未の千体地蔵堂を継ぎ、また正福寺古跡とも言う。寺社由来書では太平山東應坊に千体地蔵堂があり、平原山正福寺に薬師堂があったと。この二つの古跡をつぎ、さらに長尾寺もつぐものであろう。従って今も本尊地蔵菩薩と千体地蔵とその絵巻、弘法大師御行跡図(写)、薬師如来立像と日光月光菩薩像もあり、文化財としての古記録がある。

◇地名「幸田」
 享保11年(1726)の「地下上申」には「劫田」と書かれ、天保12年(1841)の「風土注進案」には「幸田」となっている。もとは正八幡宮領の「神田」があった所で、今の小字名に宮司坊、宮司坊原がある。

第88番宮ノ旦 大師堂 本尊、子安観音 管理寺、栄泰寺
 この札所は宮ノ旦公民館の正面右手にある。明治3年(1870)栄泰寺に合併し廃寺となった萬徳院は、往古はこの地にあったと伝えられ、万寿寺と称した。その万寿寺の旧跡に文政2年(1819)には観音堂があり、ここに札所はおかれた。この観音様は子供の病気に霊験あらたかであるといい、本尊を子安観音という。四国霊場の本尊は薬師如来である。ここにある大きな子安観音像は地元の大工内田仲蔵氏の作という。祭壇にある千手観音像が古くからの観音堂本尊であろう。この観音様は子宝に恵まれぬ人や難産で苦しむ人に御利益が大きいという。境内にある天明8年(1788)の宝筐印塔その他の石造物から、江戸中期以降も堂守の坊さんがあったことがわかる。