秋穂・観光ポイントのご案内
海眺の宿・あいお荘

 秋穂の背骨・中道山の中腹に位置し、眼下に瀬戸内海の大パノラマが広がります。晴れた日は遠く九州・国東半島まで見渡すことができます。あいお荘の自慢は車えびをはじめとした新鮮な魚介類料理。客室は3タイプあり、67名の宿泊収容力です。天然温泉(単純放射能冷鉱泉)は露天も楽しめ、各種宴会やパーティ、日帰りでも気楽に利用できます。またラウンジには秋穂町(旧)の名誉町民となった小林和作/浜村秀雄の作品や記念品が展示されています。

赤崎神社

 義経 汐待ちの石
赤崎神社は、社伝によると聖武天皇の神亀4年(727)豊前国宇佐嶋よりこの地に鎮座という。(祭神 田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命)
 元暦2年(1185)源義経が平家追討のとき、3月20日この浦に船を寄せ、当社に詣でて、夜もすがら朝敵退治の祈願をし、神楽を奉しつつ「ちはやぶる 神の誓いを 今ぞ知る」と打ち詠じたところ、空中より妙なる声が聞こえてきた。さては神明感応ましましたと、信心肝に銘じたという。
 この平らな石は、義経が船で出陣するにあたり、汐待ちをした石と伝えられている。
 神社には義経の短冊や奉納した鎧もあったが、年代を経て短冊もなくなり、鎧ほころびて今では原型をとどめないまでになっている。
 また、こうした由縁によって、社家道中家では、一時期源姓を称した。

大村益次郎生誕地碑
昭和54年6月4日秋穂町(旧)指定史跡

 ここには大村益次郎(幼名、惣太郎のち良案、蔵六、益次郎と改名)の父方藤村家屋敷跡である。父孝益は鋳銭司の村田家を閉じて家族揃ってここ西天田の藤村家に戻った。従って惣太郎は幼年時代にこの地で育ち思い出多い「ふるさと」の地となった。この屋敷に現存する井戸は「益次郎産湯の井戸」と伝えられている。この碑は大正8年、50年祭記念に岩屋の石を運んで建てた。
1824〜1869
幕末・維新期の軍政家、明治軍制の創設者。旧名は村田良庵,のち蔵六。名は永敏と称す。長州藩の医者の子。大坂の緒方洪庵の門で蘭学と医学を学ぶ。宇和島藩主伊達宗城の推挙で幕府の蕃書調所に仕えたが、長州藩に呼び戻され、同藩の兵制改革に力量を発揮。第2次長州征伐、戊辰(ぼしん)戦争で軍事指導に才腕をふるう。明治政府の兵部大輔として藩兵解散、徴兵制実施、鎮台・鎮守府の設置など近代兵制の樹立に尽力したが、その急進性が守旧派の反感を買い、1869年反対派士族に襲撃されその2ヵ月後に死亡。彼の構想は山県有朋らに受け継がれた。

香月泰男画伯の風景画碑

 シベリアシリーズで有名な香月泰男は秋穂に足跡があります。車えび養殖・日本発祥の地は秋穂。役人生活で長く車えびと関わった藤永元作は、夢を捨てきれず退官後、秋穂に移り住んだ。廃棄された塩田地後を活用し本格的な養殖事業に邁進した。朝日新聞連載カット絵を担当していた香月泰男は藤永元作の取材で秋穂を訪れ、当時顧問をしていた旭水産を訪ね、養殖場をスケッチした。スケッチ画を記念碑とした石碑は旭水産に鎮座する。香月婦美子夫人は旧姓を藤家と称し秋穂町(旧)の出身。また名誉町(旧)民である小林和作画伯とは親戚関係に当たります。

串山連峰遊歩道

 海眺の宿・あいお荘からコミュニティセンターまでのなだらかな約3キロ、小一時間の遊歩道コースです。秋穂の自然や素晴らしい風景を楽しめることから「やすらぎプロムナード秋穂縦断遊歩道」と名付けられています。全行程には、季節に応じて33種類の花木が植栽され、花木それぞれには根株型の説明板が設置され詳しく知ることができます。途中、見晴らしの良い展望台では秋穂周辺の景色が360度のパノラマで拡がり、各種施設の総合説明板があります。

猿岩

 尻川湾の東側を先に進むと湾に面して奇妙な岩が水中から現れます。そういわれて目をこらすと猿に見えなくもありません。これは、平成2年、町制施行50周年を記念して選定された秋穂八景の一つ「猿岩」です
 町民応募で選ばれた8点は他に、「漁港の風景」、「竹島」、「花香の朝」、「中道湾」、「夫婦池」、「雪の正八幡宮」、「不動様の滝」があります。

正八幡宮
平成元年9月2日国指定重要文化財(建造物)

 本社は弘仁5年(814)宇佐から二嶋古宮の地(現山口市秋穂二島)に勧請、文亀元年(1501)大内義興が現在地(秋穂町西・宮之旦)に建立、江戸時代の元文5年(1740)藩主毛利宗廣が改建したのが現建造物である。(棟札あり)
 この本殿・拝殿・桜門、庄屋が軒を接する建築様式は、室町時代に山口地方で発生した神社建築様式の独自な景観を示すもので、その規模、彫刻等本殿や桜門等の特長ある形式は江戸時代を代表する県下第一の神社建築で代表的社殿建築として貴重な遺構で秀作である。(山口県教育委員会)

千坊川キャンプ場

 南部海岸道路からセミナーパークに向かう途中、信号から少し入った所にあります。大海山と外屋池に挟まれた2.2ヘクタールの自然豊かで静かな憩いの空間です。キャンプサイトは18カ所、ご家族やグループのご利用に向いています。使用料は無料ですが事前予約が必要です。(秋穂総合支所建設課083-984-8028、平日午前8時半〜午後5時15分)

善城寺タブノキ
昭和57年1月7日秋穂町(旧)指定天然記念物

 このタブノキは根元周囲5.4メートル、地上2.8メートルのところで分枝し、上部は切損していて樹高は高くないが、枝張りは半径8メートルから9メートルあり四方にひろがっている。県下で有数の巨木である。
幹の下部に空洞があり、中に弘法大師の座像が安置されている。タブノキの花は4、5月ごろ咲き、果実は径が1センチぐらいで、7月ごろに黒紫色になる。また材は船材、家具材になる。

長徳寺

 43番札所。文政2年の絵地図によると、大蔵社と長徳寺の中程の大師堂にまつられていた。大蔵社北側高台の「山ノ神社」古跡の地と推定される。44番は勧請当初より長徳寺(もと定林寺)に安置され、現在に至っている。長徳寺は山号を熊耳山といい、本尊を薬師如来とする曹洞宗寺院である。はじめ胎蔵寺と称していたが、その後、元和年中(1615〜24)に蘭登全芝和尚が、寺号を定休寺に改めた。明治3年、大海の大昌寺に合併され廃寺となったが、翌年長府功山寺末の壇ノ浦にあった長徳寺を引寺して再興した。この長徳寺は、今の関門人道トンネル入口の上あたりにあったといい、馬関戦争の際に砲台を据えるために解体されていた。昭和34年、東天田にあった海蔵寺を合併し現在に至っている。

浜村秀雄・記念品展示コーナー(あいお荘ロビー)
秋穂町(旧)名誉町民

 昭和3年7月20日 秋穂町花香北に生まれる
昭和27年 第1回別府マラソン優勝
昭和28年 名古屋朝日マラソン優勝
昭和29年 大阪毎日マラソン優勝
昭和30年 ボストンマラソン優勝
昭和31年 メルボルンオリンピック第16位
昭和33年 アジア大会日本代表
昭和35年 協和醸酵陸上競技部監督
平成2年 丸久陸上競技部監督
平成4年 偉業をたたえ浜村杯秋穂ロードレース大会スタート
平成10年 ファーストリテイリング女子陸上競技部監督
平成12年 5月逝去 11月秋穂町名誉町民に推挙される。

福楽寺ソテツ
昭和51年1月7日秋穂町(旧)指定天然記念物

 このソテツは、雌雄二株でありいずれも根本付近から多数の支幹が出て株立てとなっている。雌株は根本付の総株廻り約6メートルで、主幹は地上1.5メートルで幹囲約2メートル、主幹の高さ、約7メートルであり全国的にも有数のものである。雄株は根本付近の総株廻り約4.5メートル、主幹の高さ約3メートルである。雄木であるので幹の頂部に多数の雄花が中心軸に集まって、長さ50センチメートル前後の砲丸状の花群を形づくる。

ベッコウトンボ生息地

 ベッコウトンボ道の駅「あいお」の裏にはのどかな田園風景が拡がり、農業用の溜め池がある。4月中旬から5月にかけて人々の目を楽しませるのは、睡蓮の可憐な花とベッコウトンボ。

 ベッコウトンボとは?
ヨシやガマのある池沼に生息し、4月の中旬頃から6月中旬まで成虫が見られます。ベッコウトンボの名称は、未熟成虫の体色が褐色の地に黒色の斑紋があり、羽にも黒色の斑紋がありベッコウ(海に生息するベッコウ亀)に似ていることに由来する。ベッコウトンボは、かっては宮城県から鹿児島県にかけての水田周辺の湿地や沼などに普通にみられていましたが、生息地の藁境の変化等に伴い年々生息分布域や個体数が減少し、現在では「幻のトンボ」といわれ、確実な発生を繰り返しているのは、静岡県の桶ケ谷沼だげといわれています。環境省編レッドデータブックの絶滅危惧種1類(CR+EN)でもあり、「種の保存法」に1994年昆虫としてわが国において最初に指定・保議され、捕獲及ぴ採集が禁止されました。

道の駅「あいお」

 四季折々に多彩な美しさを見せる秋穂は、野趣に富み、海も山もなだらかな曲線で紡ぎ合い、人々を癒してくれるかのようです。道の駅「あいお」では、瀬戸内の新鮮な魚介類が毎日運び込まれます。根強い人気の秋穂名産海産物瓶詰め各種(コノワタ、ニシうに、粒うに、サザエうに、アワビうに、アサリうに、イカうに等)。収穫されたばかりの花や野菜(生活改善グループのみなさんが名前入りで責任を持って生産販売しています)が顔を並べています。特に忘れてならないのが、車えび。秋穂は日本の車えび養殖発祥の地であり、天然物も含めて町を代表する特産品です。道の駅でも活車えびの注文を受け付け、お客様に喜ばれています。秋穂の車えびは、プリプリとした歯ごたえと、ほのかな甘さが噛むほどにひろがり最高。その味を家庭で手軽に楽しめるよう開発されたえび加工食品が好評です。節で分かれた屋根の形、照明塔から延びたワイヤーと照明具、建物全体が車えびをイメージして建てられていることにお気づきでしょうか。

吉岡新太郎とマサの墓

 秋穂生まれの吉岡新太郎は、維新戦争を勇敢に戦い多くの武勲を上げた。しかし、心中したことが原因で長州藩の公式記録の中で存在を抹殺された。幕末大阪に駐屯した新太郎は、難波の商家の娘マサと恋に落ちた。やがて秋穂に帰陣した新太郎を追ってマサは単身秋穂に向かった。規律が求められる倒幕隊の幹部が女性を連れ帰ったことへの周囲の目。また武士と商人、身分の違いから添い遂げることの難しさ。様々な思いの果てに二人は心中の道を選んだ。秋穂の住人は若い二人の悲恋を哀れみ、禅光院の墓地に、二人の墓を並べて建ててやった。マサの墓の裏側には「はるばるとたずね秋穂の浦浪に、ともに散るとはあはれなりけり」という、地元の豪商有富猿石(源兵衛)の歌を刻んだ。悲劇の下りは秋穂版「ロミオとジュリエット」を彷彿させる。

和作の広場
秋穂町(旧)名誉町民

 洋画家小林和作は、明治21年(1888)、この地で出生した。父、和市は代々続く富有な地主としての経営に加えて、実業家としても有能な人物であったが、和作はその後継者の道を望まず、明治37年16才の時画家を志して京都に出る。
 京都市立美術工芸学校日本画科・京都市立絵画専門学校で日本画を学んだが、大正8年、洋画に転進して上京、その後春陽会会員となる。
昭和3年、ヨーロッパ外遊、
昭和9年、独立美術協会会員となり、東京から尾道市に居を移す。
 独立美術協会の重鎮として多彩な作品を発表する一方で、地方の画家育成に物心両面の力を尽くした。また、愛郷心が厚く、折にふれ故郷への支援を惜しまなかった。
昭和39年4月、秋穂町名誉町民となる。
昭和46年、勲三等旭日中綬章を受章。
昭和49年(1974)11月4日、広島県三次市方面へスケッチ旅行中に不慮の事故で死去。